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ジャック・ブリスコ NWA世界王座という幻想――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第33話>

 “レイス・モデル”と呼ばれるNWAベルトを最初に腰に巻いたのは、じつはレイスではなくてブリスコだった。  ブリスコがレイスを下してNWA世界王座を奪取した試合でお披露目された新しいチャンピオンベルトは赤のベルベット地のものだったが、この色がどうしても好きになれなかったブリスコはその後、実費で黒革のベルトを新調した。  ブリスコはNWA世界王者として通算2年5カ月間にわたりアメリカ全土、カナダ、プエルトリコ、日本、オーストラリア、ニュージーランドを休みなくサーキットした。  NWA本部との契約ではチャンピオンのスケジュールは3週間のツアー、1週間のオフというサイクルになっていたが、人気者のブリスコは年間350試合以上の殺人的スケジュールと60分フルタイムのタイトルマッチをこなしつづけ「飛行機のシートがわたしのベッド」という名言を残した。  テリー・ファンクに敗れてチャンピオンベルトを明け渡したときは失望感よりも安堵感のほうが大きかったという(1975年12月10日=フロリダ州マイアミ)。  NWA世界王座を失ってから9年後、ブリスコはプロレス史に残る“怪事件”の登場人物として歴史年表にもういちどその名を残すことになる。  ブリスコと実弟ジェリー・ブリスコは、NWAジョージア地区“ジョージア・チャンピオンシップ・レスリング”の役員(株主)になっていた。  ケーブルTVがアメリカの一般家庭に急速に普及しはじめ、ジョージア州アトランタのテレビ局TBS(ターナー・ブロードキャスティング・システムズ)が毎週土曜と日曜の夕方にテレビ番組“ジョージア・チャンピオンシップ・レスリング”の全米中継をスタートした時代だった。  ブリスコ・グループは同社の株式51パーセントをビンス・マクマホンに売却し、同団体の共同オーナーだったオレイ・アンダーソンは失脚。  ビンスはNWAジョージアの実質的なオーナーとなり、これと同時にTBSでの番組放映権を獲得した(1984年4月)。  ブリスコは、1984年の時点ですでにWWEの全米マーケット完全制圧とNWA時代の終えんを“予知”していた。  NWAの“人事”にほんろうされつづけたブリスコは、最後の最後に“巨大カルテル”NWAの内部分裂のきっかけをつくり、引退試合をすることなくその現役生活にピリオドを打った。 ●PROFILE:ジャック・ブリスコJack Brisco 1941年9月21日、オクラホマ州オクラホマシティー出身。オクラホマ州立大在学中、アマチュア・レスリングNCAA選手権優勝。1965年、プロレス転向。NWA世界ヘビー級王座をはじめ、シングルとタッグを合わせて13タイトルを通算45回獲得。得意技は足4の字固め。1984年、ビンス・マクマホン体制のWWEに移籍後、引退。2010年2月2日、心臓疾患と肺気腫の合併症で死去。68歳だった。 ※文中敬称略 ※この連載は月~金で毎日更新されます 文/斎藤文彦
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