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ザ・ロック ハリウッドが求めたチャンピオン――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第88話>

 ロックの父ロッキー・ジョンソンRocky Johnsonは“ソウルマン”のニックネームで活躍した元WWF世界タッグ王者(パートナーはトニー・アトラス)。  ジョンソンとメイビア夫妻の娘アタが結婚し、サモアンと黒人の混血というめずらしいコンビネーションがロックのカシュー色の肌をつくった。  父親がプロレスラーだったため、少年時代は数年ごとに引っ越しをくり返した。ホームタウンと呼べる土地は、親せきがたくさん住んでいるハワイとマイアミということになる。  ペンシルベニア州ベスレームのフリーダム・ハイスクールを卒業後、フットボール奨学金を取得して名門マイアミ大学に進学。マイアミ・ハリケーンズではディフェンシブ・タックルとして活躍し、チームをNCAA選手権優勝に導いた(1991年)。  NFLのドラフト指名から外れたためCFLカルガリー・スタンピーダーズに3年間在籍したが、1995年にプロレス転向を決意し、父ジョンソンとパット・パターソンのコーチを受けた。  デビュー当時のリングネームはフレックス・カバーナFlex Kavanaで、WWEと契約(1996年9月)と同時に父親のファーストネームと祖父のラストネームを合わせたロッキー・メイビアRocky Maiviaに改名した。  いきなり“サバイバー・シリーズ”の大舞台でデビューし(1996年11月17日=マディソン・スクウェア・ガーデン)、それから3カ月後にトリプルHを下してインターコンチネンタル王者になった(1997年2月13日=マサチューセッツ州ローウェル)。  はじめのうちはフットボール出身のいわゆるアスリート系ベビーフェースとして売り出したが、毎週月曜夜の連続ドラマ“ロウ・イズ・ウォー”でストリート系ヒールを演じたことでザ・ロックの“毒舌キャラクター”が完成品となった。  WWEのTVショーの画面のなかにおさまっていた時代をロックのプロレスラーとしての現役生活とすると、そのキャリアはわずか6年足らずだった。  プロレス・ブームといわれた1999年から2002年にかけては、4年連続でスーパーイベント“レッスルマニア15”から“レッスルマニア18”までのメインイベントをつとめた。  PPVの有料視聴契約世帯数は“レッスルマニア15”(1999年3月28日=ペンシルベニア州フィラデルフィア)が80万世帯、“レッスルマニア16”(2000年4月2日=カリフォルニア州アナハイム)が82万5000世帯、“レッスルマニア17”(2001年4月1日=テキサス州ヒューストン)が95万世帯、“レッスルマニア18”(2002年3月17日=カナダ・トロント)が84万世帯。WWEの興行収益歴代1位から4位(当時)までのすべてのイベントでロックは主役をつとめた。  宿命のライバルだった“ストーンコールド”スティーブ・オースチンとは“レッスルマニア15”(1999年)“レッスルマニア17”(2001年)“レッスルマニア19”(2003年)で合計3回対戦。  ロックがストーンコールドの十八番スタナー、ストーンコールドがロックの専売特許ロックボトムにトライしたシーンがなつかしい。WWEスーパースターズの新陳代謝のサイクルはひじょうに速い。
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スタートレックがきっかけで映画俳優に転向
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