雑学

碇シンジになり切ったおっさん「笑えばいいと思うよ」。僕は笑えなかった――patoの「おっさんは二度死ぬ」<第28話>

 昭和は過ぎ、平成も終わりゆくこの頃。かつて権勢を誇った“おっさん”は、もういない。かといって、エアポートで自撮りを投稿したり、ちょっと気持ちを込めて長いLINEを送ったり、港区ではしゃぐことも許されない。おっさんであること自体が、逃れられない咎なのか。おっさんは一体、何回死ぬべきなのか――伝説のテキストサイト管理人patoが、その狂気の筆致と異端の文才で綴る連載、スタート!

patoの「おっさんは二度死ぬ」【第28話】新世紀おっさんゲリオン

 おっさんとは時にエンターテイナーだ。

 誰かを喜ばせ、誰かを楽しませたいという思いは、多くの人が心の奥底に持っている。その大小に差はあれど、根底を流れる思いは変わらない。時にジョークを言って楽しませることもあるかもしれないし、時に人から聞いた面白エピソードを伝えるかもしれない。古来より人は人を楽しませることで生きてきた。連綿と続くエンターテイナーの系譜だ。そう、全ての人にエンターテイナーの素養がある。

 もちろん、おっさんにも誰かを楽しませたい気持ちはある。

 ただ、多くのおっさんは悲しいことにその気持ちが空回りしてしまいがちだ。楽しませたい気持ちが相手に伝わらない、もしくは楽しませたいのに楽しくないことを言ってしまいがちだ。その代表例が、おやじギャグなのだろう。別に悪気があるわけじゃない。あれがおっさんの最大限のエンターテインメントなのだ。

 僕の知っているおっさんも、そういった空回りしがちなエンターテイナーだった。

 もう十年以上も前になると思うが、当時の僕は毎日パチンコ屋に並んでいた。その時は少し足を延ばして郊外の店に通う毎日だった。

 その店は朝から開店待ちで十人くらいが並ぶ店だった。こんな田舎のさらに郊外、そんな場所にあるパチンコ屋に熱心にも朝から並ぶ連中だ、どいつもこいつも一流のクズだ。クズたちがクズたちの面持ちでクズらしく並んでいた。

 一人のおっさんが、ひょいと列から抜け出した。そして、並んでいるクズに向かって、なにやら漫談のように昨日エピソードを語りだした。

 一瞬、何が起こったのかちょっと分からなかったが、おそらく、この開店までの暇な時間を楽しませようという意図なのだと思った。おっさんはエンターテイナーだ。行列に並ぶ面々を楽しませようとしたのだ。

 ただ、その漫談が圧倒的につまらなかった。ちょっと信じられないレベルでつまらなかった。

「昨日うちの嫁がキャベツとレタスを間違えて買ってきましてね、おまえー、キャベツとレタスは違うだろーと怒ったんですわ。でも嫁も不貞腐れちゃいましてね。一緒じゃない、っていうんです。もう私はアッタマきましてね、こら、同じじゃないだろ、違うだろ、なんといっても字が違うってね」

 教養が足りないがゆえにこれの笑いどころが僕には分からないんじゃないだろうか、そう不安になってくるエピソードですよ。行列の面々を見てみてもやっぱり意味が分からないらしく、みんな借りてきた猫どころか借りてきた仏像みたいにピクリとも動かない。

「いったいなんだったんだろう」

 そんな漠然とした思いだけを残して、開店時間を迎えた。

 次の日も、行列に並んでいると同じおっさんが列から飛び出し、漫談を始めた。相変わらず面白い面白くない以前に、これは高度な哲学的な問答なのではと思うような意味不明なエピソードが披露される。そして行列はまた仏像と化す、この繰り返しだった。

 連日繰り返される漫談と仏像、そこにはある種の詫び寂びの世界のような趣が展開されつつあった。僕はその光景を眺めながら、連日心を痛めていた。

 おそらく、おっさんはエンターテイナーなのだ。行列に並ぶ僕らを楽しませようとしている。けれども、どうしてもその気持ちを受け取ってあげられないのだ。そう、圧倒的につまらない。楽しんであげたいのに、一切合切笑うことができないのだ。それは本当に心が痛く、苦しいことだった。

 ある日のことだった。

 またあれが始まるのかと思うと、少し憂鬱な気分で列に並んでいると、おっさんが芸風をチェンジしてきた。いつもの高度な漫談ではウケないと判断したのかモノマネにシフトしていた。

「いらっしゃいませー、いらっしゃいませー」

 この店の名物店員であるリーゼント頭の山岡君のモノマネだった。これがちょっと抜けたヒットだった。ちょっと面白かったのだ。僕も少し笑ってしまったし、行列の面々もクスクスと笑い出した。

「モノマネはいける!」

 そう判断したのか次の日からモノマネ地獄が始まった。

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まさかの角度のモノマネに不覚にも笑ってしまう

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