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司馬遼太郎は「保守」ではない、共産主義者ではなかっただけ/倉山満

 かつては「保守」陣営を代表する言論人と目されていた、司馬遼太郎。しかし、憲政史家の倉山満氏は「当時、司馬が『保守』だと思われたのは、他の言論人のことごとくが、多かれ少なかれ左翼色を帯びていたからだ」という――。(以下、倉山満著『保守とネトウヨの近現代史』より一部抜粋)
倉山満氏

写真/恵原祐二

「新憲法」が死語になった

 敗戦から二十年、東京オリンピックが終わったころには、「新憲法」が死語になった。日本国憲法が定着したので、もはや「新」とは呼ばれなくなったのだ。昭和四十年代の最初の八年間、総理大臣の地位を独占したのは佐藤栄作だ。佐藤の実兄の岸信介は日本国憲法の改正を生涯の努力目標とし、日米安保条約に基づくアメリカ軍の駐留も暫定的だと考えていた。だが、岸の抱いた自主憲法自主防衛は佐藤内閣で否定され、日本国憲法も在日米軍の駐留も永遠であるかのような前提で政策が採られていく(この点に関しては過去の多くの著作で論じたが、『自民党の正体』PHP研究所、二〇一五年を挙げておく)。  こうした時代を代表する「保守」陣営の言論人と目されたのが、司馬遼太郎である。NHK大河ドラマの原作に採用された作品だけでも、『竜馬がゆく』『国盗り物語』『花神』『翔ぶが如く』『最後の将軍 徳川慶喜』『功名が辻』と六本を数える。

今でも評される「司馬史観」

 さらに、日露戦争を描いた『坂の上の雲』は大河ドラマを上回る規模で製作され、数年かけて放映された。この作品の影響は大きく、特に戦前日本で英雄だった乃木希典は「愚将」として評価が定着した。司馬の歴史観は今でも「司馬史観」と評される。
司馬遼太郎『坂の上の雲(一)』 (文春文庫)

司馬遼太郎『坂の上の雲(一)』 (文春文庫、画像:amazonより)

 最大のヒット作が『竜馬がゆく』で二一二五万部、二十位の『最後の将軍 徳川慶喜』(大河ドラマ『徳川慶喜』の原作)でも二二〇万部である。ちなみに、現代において最大のヒットメーカーである村上春樹の『騎士団長殺し』が一三〇万部、「保守」業界で最大のベストセラー作家である百田尚樹の『日本国紀』が六五万部である。

司馬史観はなぜ画期的だったのか

 司馬はもともと産経新聞の記者で、昭和二十三(一九四八)年に京都支局に入局している。三島由紀夫の小説『金閣寺』の題材となった金閣寺放火事件が昭和二十五年に起きているが、この事件の記事を産経新聞に書いたのは京都にいた司馬である。  代表作の一つである『坂の上の雲』が、単行本全六巻として文藝春秋から発売開始されたのが昭和四十四(一九六九)年。『坂の上の雲』は、前年から四年間にわたって産経新聞(一時期サンケイ新聞)夕刊に連載された新聞小説である。  司馬の小説は、その歴史観にマルクス主義を採用しない点が画期的だった。たとえば、斎藤道三・織田信長・明智光秀の三人を主人公とした『国盗り物語』は、武将たちの生々しい政争の現実や戦国時代の経済の実態について随所で解説している。マルクス主義のイデオロギーにとらわれずに政治や経済を解説する点が、斬新だった。  だが今では、いわゆる「保守」業界において、司馬の評価は二分される。
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司馬遼太郎は共産主義者ではなかっただけ
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