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悲運の甲子園のスター、上原晃が語る球界引退とこれからの夢

 沖縄の星と呼ばれ、4度の甲子園出場を果たした上原晃。当時の中日ドラゴンズ監督、星野仙一に魅入られ中日ドラゴンズに入団した。そしてルーキーながらも88年の中日ドラゴンズ優勝を支えるダブルストッパーとして大車輪の活躍を見せる。中日入団からルーキーイヤー、そしてケガについて、当時を振り返りながら語った前編に続き、戦力外通告から今の人生に至るまでを追った。

血行障害を発症し手術に踏み切る

上原晃

現在は名古屋で整体師として活躍する上原晃さん。休日は少年野球のコーチなどもしているという

 5年目の春先、身体に異変が生じた。突然右手が痺れ出し、しばらくすると治まったりの繰り返しが続いた。頻繁に出るわけでもなかったので放っておいたのだが、夏場にできた血マメがなかなか治らないことで何かおかしいと思い、病院に行くと「血行障害」と診断された。 「手術したらもうスピードが戻らないのではないかというのが一番怖かった。現在監督の与田(剛)さんが大学時代に手術してスピードが落ちなかったというのを聞いて、手術に踏み切った」  92年に右手の甲の部分を切開しての血行障害の手術をする。そして翌年、春季キャンプに参加し順調な回復ぶりを見せるが、シーズン途中に再発し二回目の手術を行った。関節で血管が止まっていると右手中指の両側面部分を切開しての手術から復帰するのに1年以上かかり、94年はまるまるリハビリに費やすこととなる。 「痛みはないんだけど、スピードが出ない。140キロ出るか出ないか……。いろいろな球種を覚えていればベテランになったらインサイドに投げてアウトコースにスライダー、カーブと投球術でかわすことができるんだけど、ルーキーの年に自分のイメージを作ってしまったから、それができなくなっちゃった。  入団後、2年くらいファームで変化球を覚えたりして軸を作っていれば、ちょっとしたアクシデントでも治せたはず。プロとしての修正能力を身に付けずに血行障害になってしまったものだから……。本当は元気なうちにツーシームとか覚えていればね。  1年目のイメージがファンにも首脳陣にもあるし、当然僕だってあるからそれを追い求めてしまう。真っすぐに関してはこだわりがあった。球速が落ちてからも、あの頃の真っすぐに戻りたいという思いは強かったね。真っすぐを諦めて他のボールに活路を見出していれば、幅広くできたのかもしれない」

96年オフに無情の解雇通告

 後悔の念をまざまざと見せる上原は、恥も外聞もなく素直な気持ちを吐露してくれた。高卒ルーキーとしてあれほど鮮烈なデビューを果たした上原だったが、無情にも96年オフに中日を自由契約となった。すぐさまに広島からのテストの誘いを受けて移籍した上原はキャンプまでは一軍帯同だったが、シーズンに入ると同時に二軍に落とされた。そして、たった1年で解雇となる。 「広島をクビになったときは、ここらへんで潮時かなと思ったけど、まだ28歳でもっとやりたい、できると。自分でいろいろと分析していく中でもなかなか答えが見つからないまま投げていた。昔のイメージ通りの150キロの球を追い求めるんだけど、150はおろか145も出ない。これでダメなら終わりかなという思いでヤクルトのテストを受けた」  28歳といえば、これから円熟期としてタイトルに絡めるほどの活躍ができる年齢。二度の自由契約を食らっても炎は消えておらず、秋季キャンプ時にヤクルトのテストを受けた。野村監督率いるヤクルトは当時野村再生工場と呼ばれ、他球団を追われた数々の選手が野村監督の下で再生していった。 「秋の西都キャンプで調子がよく、フォークボールがキレていたね。野村野球は本当に勉強になった。毎日のミーティングで黒板に書かれたことを板書したら一冊のノートになったくらい。いわゆる野村ノートね。今まで感覚の野球だったのが理論の野球を教えられ、きちんとためになるんだよね。ノートに書いて『残す』というのが大きい。そういった分析を若いうちにできていたら、もっとやれていたとあらためて感じた。  中日、広島時代よりもずっと状態が良くて球速も143キロまであがり、あと少しで一軍というときにまた血マメができてね。岩村(明憲、元ヤクルト)や石井弘寿(現楽天監督)が二軍にいる頃で、先発しイースタンで優勝して楽しかったよ。野村さんが辞めたときに、球団経営がちょっと危うい感じで、たくさんの人を切るという情報が流れて、運悪くその中に入ってしまった感じ。あと1年間だけやりたかったかな」  上原が朗らかに話すが、口惜しさが滲み出ていた。二度の解雇の末、ヤクルトに拾ってもらい、最後だと思ってガムシャラに野球に打ち込む。血行障害による指先の調子もよく、球速がデビュー時に戻りつつある中で“希望”が生まれた。デビュー以来の手応えを感じ、投球内容も抜群。上原はあと少しで一軍切符が手に入ると思った。  しかし野球の神様はそう簡単にご褒美を与えてくれなかった。指先に血マメができてしまい、一軍行きの話が流れてしまう。結局、広島に続き、ヤクルトも一年でクビになった。
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引退後は整体師の道へ進む
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1968年生まれ。岐阜県出身。琉球大学卒。出版社勤務を経て2009年8月より沖縄在住。最新刊は『92歳、広岡達朗の正体』。著書に『確執と信念 スジを通した男たち』(扶桑社)、『第二の人生で勝ち組になる 前職:プロ野球選手』(KADOKAWA)、『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『偏差値70の甲子園 ―僕たちは文武両道で東大を目指す―』、映画化にもなった『沖縄を変えた男 栽弘義 ―高校野球に捧げた生涯』、『偏差値70からの甲子園 ―僕たちは野球も学業も頂点を目指す―』、(ともに集英社文庫)、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『史上最速の甲子園 創志学園野球部の奇跡』『沖縄のおさんぽ』(ともにKADOKAWA)、『マウンドに散った天才投手』(講談社+α文庫)、『永遠の一球 ―甲子園優勝投手のその後―』(河出書房新社)などがある。

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