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パートナーを傷つけてまで優先される“正論”はない<モラハラ夫の反省文>

相手の世界を知ろうとしない愚かさ

 一体、なぜDV・モラハラ加害者はこのような加害的なコミュニケーションを取ってしまうのでしょうか。  そこには「自分の正しさを説明しよう、わからせよう」という気持ちがあります。自分は正しくて相手は間違っているという前提で世界を捉えているので、「きちんと説明すれば相手はわかる。説明してもわからないのは、相手の頭が悪いからだ」と結論づけているのです。  こういう人間は何を「しない」かと言うと、相手の考えをわかろうとしません。相手の感じたこと、考えていること、気にしていること、避けたいこと、嫌なこと、そういったことを知ろうとしません。  たとえ聞いたとしても、それを「自分の論理」の枠組みの中で説明できないと、間違っているとか、感情的だとか、根拠がないとか、非合理的だと認識します。  しかし、実際にそう感じているという現実はそこにあるのです。現に、目の前に、食器をこう置いてもらえると嬉しいという人がいるのです。そう置かれると嫌だと感じる人がいるのです。  であれば、一体なぜ論理が必要でしょうか。自分の行動を変える根拠がこれ以上必要でしょうか。ただ、相手のその感じている世界に寄り添って、相手の世界の中に自分を置いて、相手にとって嫌なことの少ない行動を取れば良いのです。

真に論理的であることの意味とは

 論理的に考えれば、論理的に考えることで相手を傷つけるなら、論理的であることが最適じゃないときがあることくらい論理的に導けるはずです。  そもそもの思考が正しく論理的であるかは別としても、論理的であることを標榜するなら、この結論にたどり着けない理由はないはずです。目の前の大切にしたいはずのパートナーを傷つけてでも論理的であることが優先される論理なんて、あるのでしょうか。  そんなものはないと思います。  僕のエピソードを振り返ってみれば、僕の中にあったのは「僕のやり方に文句をつけられた! なんだか腹が立つから、絶対に言うことなんか聞かない」という幼稚な感情だけです。  それに論理だのなんだのといろんなことでごまかそうとすることを、人は屁理屈と呼ぶのでしょう。本当に論理的にあろうとしているのではなく、単に自分の感情に基づいて都合よく理屈を振りかざすことを。
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DV・モラハラを見抜くポイント
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DV・モラハラなど、人を傷つけておきながら自分は悪くないと考える「悪意のない加害者」の変容を目指すコミュニティ「GADHA」代表。自身もDV・モラハラ加害を行い、妻と離婚の危機を迎えた経験を持つ。加害者としての自覚を持ってカウンセリングを受け、自身もさまざまな関連知識を学習し、妻との気遣いあえる関係を再構築した。現在はそこで得られた知識を加害者変容理論としてまとめ、多くの加害者に届け、被害者が減ることを目指し活動中。大切な人を大切にする方法は学べる、人は変われると信じています。賛同下さる方は、ぜひGADHAの当事者会やプログラムにご参加ください。ツイッター:えいなか

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