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いいね!への渇望とSNS広告の洗脳…自分を見失っていくぴえん世代

考える力を失っていくぴえん世代たち

 逆説的に言えば、ぴえん世代には容姿さえよければうまくいく、という過剰なルッキズムの後押しがなされているようにも感じる。 世間はルッキズムを否定する流れだが、そうした投稿は後を絶たない。この顔さえよければ許されるというのが、近年のぴえん世代の文化観に内包されている危険性なのかもしれない。  垂れ流される情報を見続けて、咀嚼して言語化する時間がないから、「それはぴえん」「これはエモい」「良き」と語彙力が欠落した単純な会話が繰り広げられるのも特徴だ。  特に今は「エモい」なんていう便利な言葉が生まれてしまったせいで、何を見ても「エモい」とだけ表現し、すぐ次のコンテンツを貪ってしまう。何をどうエモく感じたのか、言語化することをサボりがちな気がする。  今の時代、本当に好きなものを何時間も語れるような仲間を見つけることが、逆に難しくなったのかもしれないとさえ私は時々考える。昔は「クラスで一番かわいい」「クラスで一番絵がうまい」などの狭いコミュニティでの評価だったものが、今はネットで簡単に自分よりも優れている同年代にアクセスできてしまう。  だからこそ常に「自分にしかないもの」を探しているけれど、なかなかそれも難しい。そんな社会で自分の存在価値を確かめるには、やっぱり数字で評価されたり、お金を使ってでも誰かに必要とされる場所が必要だし、推されることで自分の価値を確かめる側面もあるだろう。  推される側も推す側も、そこに価値を見いだして相互作用的に依存しているのではないだろうか。こんな複雑怪奇な時代に生まれてしまったのだ、まさしく「ぴえん」な状況なのかもしれない。

「ぴえん世代」新語辞典

・盛る・映える 盛るはもともと、料理をお皿の上に重ねていく「盛る」からきており、それと同じように自身の写真を加工して見栄えを良くするのが「盛る」である。対して「映える」は盛るよりも記号的な意味合いを持ち、自分以外の景色や食事などにも使われる。その半面、ご飯やスイーツを「映えればいい」と写真だけ撮って捨てる人々も一定数存在し、問題視されている。 ・ぴえん もともとはSNSにおける悲しい顔の絵文字を呼ぶ用語だったが、響きの良さもあり、嬉しいとき、悲しいときなど心揺さぶられる状況時に使える便利な言葉として多用されるように。ヤバい、エモいと同じく「それはぴえんだね」と形容動詞的な使い方から、「あいつはぴえんだ」という代名詞的な使い方まで幅広い使い方がされる。一世代前の「卍」と同じような便利さである。
現役女子大生ライター。10代の頃から歌舞伎町に出入りし、フィールドワークと自身のアクションリサーチを基に大学で「歌舞伎町の社会学」を研究する。歌舞伎町の文化とZ世代にフォーカスした記事を多数執筆。ツイッターは@chiwawa_sasaki

「ぴえん」という病 SNS世代の消費と承認

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