更新日:2024年03月12日 18:36
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自宅全焼、子供との別れ…“50歳の美脚トレーナー”が歩んだ波乱万丈すぎる人生

横暴な義母に業を煮やし、ついに別居を決意

 そんな日々が1ヶ月半ほど続き、娘の回復後、別のマンションへ居住し、そこに義母も合流することになった。だが、義母との関係性という根本的な問題が解決していないままの生活は、辛く苦しいものだった。特に仕事をすることによって社会から求められる久氏と、嫁を理解できない義母との衝突は頻繁に起きた。 「当時、私は幾つもの仕事を掛け持ちし、必死に社会復帰しようと忙しくしていました。しかしそんな事情などお構いなしの義母は、仕事の電話中でも平気で『ママ!ママ!』と大声で呼び、また『お米がない』などの些末な用件でしばしば仕事中に電話をしてきました。ひとつひとつは些細なことですが、義母のデリカシーのなさと常識を逸脱したわがままにこれまでも翻弄されてきた私は、あるとき体調を壊し、精神的にも限界を迎え、家を出ていくことにしました。まだ長男が小学生、長女が幼稚園生のころです。奇しくも、義母と元夫が別れたのと同じような年齢です」

残念ながら親権は父方に…

 子どもとの別れは辛かったが、いつか子供達を迎えに行くことを目標にして、久氏は自立のために住居を借りた。その場所が、のちに現在の美・Consciousの原型となる事務所である。家族からの離脱に際して、元夫側からの条件は「子供達と会わせない」「連絡を取らせない」とする文言だ。離婚の数年後に久氏は親権を争ったが、結果的に破れ、子どもたちは父方に扶養されることになった。 「当時小学生だった長男は、私が住むあたりまで一人で自転車で会いに来てくれました。私に会っていることが元夫側にバレ、こっぴどく叱られたことを聞いてからは、会うことも断念。近隣の警察署から『息子さんが交番に来ています』と連絡がくることもありましたが、会うことは避けるようになっていました。ただ、比較的近い地域に住んでいたので、子どもたちの様子は人づてにいろいろと聞いていました。忸怩たる思いもありましたが、何とか我慢して耐え忍びました」
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ウォーキング講師として成功した現在思うこと
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ライター、エッセイスト。可視化されにくいマイノリティに寄り添い、活字化することをライフワークとする。『潮』『サンデー毎日』『週刊金曜日』などでも執筆中。Twitter:@kuroshimaaki

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