“58歳で発達障害” 通告のフリーライター「診断結果を伝えたら、音信不通になった友人たちも」
孔子の言葉である「論語」の一節に「40歳で迷うことがなくなり、50歳で天命を知り、60歳で他人の言葉を謙虚に受け止められるようになり」とあるが、58歳にして発達障害診断を受け、迷いの最中にいるフリーライターの桑原カズヒサ氏(60歳)に話を聞いた。
桑原氏は1963年に広島県の山奥に生まれ育ち、“昭和”らしく、体罰は当たり前の環境で育つ。小学校の通知表には、6年間「落ち着きがない」と書かれ続けた。
「落ち着きがないという自覚はなかったです。授業中は、教科書やノート、机にまで落書きをするような子でした。クラスメイトには、自分にも描いて欲しいと言われるくらいでした。給食では量が食べられず、偏食も酷かったので、昼休みは教室に居残って食べていました」
桑原氏本人の認識は「大人しくて目立たない、臆病な子」だったが、現実は違ったようだ。
「後ろの席の子に話しかけたりして、よほど落ち着きがなく迷惑だったのでしょう。雪の日に裸足で、グラウンドで走ってくるように先生に言われました。今だったら、虐待ですよね」
そんな桑原氏は、中学校卒業後に、クラスメイトの女の子から「あなたのあだ名は躁うつ病だったんだよ!」と言われたこともあった。
「小・中・高校時代は親しい友だちがおらず、誰とも会話がかみ合いませんでした。だけど、『躁』だと言われるのだから、いきなり好きなことを一方的に話すなどあったのでしょうね」と振り返る。
大学入学を機に、東京の阿佐ヶ谷のアパートでの1人暮らしが始まった。
「高校までと違って、大学では単位さえ取れば卒業できるので、逆にコミュニケーションを取らずにすんで楽でした。4年生の時に就職活動をしましたが、リクルートスーツで身を固めた集団を見ただけで怖くなって逃げだしました。バブル崩壊前で売り手市場だったにも関わらず、就職はしませんでした」
卒業後は、大手出版社に就職した知人の紹介で、出版業界にフリーランスのライターとして出入りし活躍するようになる。また、広告製作者としても、収入を得た。
「30代から40代にかけて、売上は600万円くらいでした。広告の仕事も多く、食うには困りませんでした」
しかし、40代の終わりごろから、将来への不安から、心身症のような症状が出始めた。
「熱が下がらないので内科を受診しましたが、どこも悪くない。胸と背中が張り付いたように感じ、苦しい。過換気症候群のような症状が出る。眠れない・倦怠感が酷いなどの症状がありました」
内科的な問題ではないと言われ、初めて精神科病院を受診した。
「20代の頃より不眠などの症状がありましたが、当時はカジュアルに精神科病院を受診できるような時代ではなかった。10年間くらいは、整体師に相談していました。それが、精神科病院への受診が遅れた理由です」
診断結果は「不安障害」だった。14年もの間、その精神科病院に通った。
小学校の通知表には6年間「落ち着きがない」
大学を卒業後に不安障害と診断される
立教大学卒経済学部経営学科卒。「あいである広場」の編集長兼ライターとして、主に介護・障害福祉・医療・少数民族など、社会的マイノリティの当事者・支援者の取材記事を執筆。現在、介護・福祉メディアで連載や集英社オンラインに寄稿している。X(旧ツイッター):@Thepowerofdive1
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