更新日:2022年08月23日 15:42
スポーツ

WCWの“実権”を握ったケビン・ナッシュ――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第310回(1999年編)

 ナッシュの発言力と人海戦術をもってすれば、ゴールドバーグの腰からチャンピオンベルトをひっぺがすのはそれほど困難なことではなかった。ナッシュがWCWの実権を握ったことがはっきりしてくると、“ナイトロ”のインタビュー・シーンではホーガンがナッシュよりも後ろに立つようになった。  ナッシュは典型的な“後天性プロレスラー”だった。ホームタウンのミシガン州デトロイト郊外の公立ハイスクールを卒業後、バスケットボール奨学金でテネシーのノックスビル大に進学。何度か転学をくり返しながらプロへの道を模索したが、NBAのドラフトにはひっかからずヨーロッパに渡った。  1990年にジム・ハードWCW副社長(当時)にスカウトされたときは、ジョージア州アトランタのナイトクラブでバウンサー(用心棒)として働いていた。ナッシュは、人生のはじめの3分の1くらいの時間を放浪の旅に費やした。プロレスとめぐり逢ったのは30代になってからだった。  変テコなリングネームとギミックにずいぶん悩まされた。最初にもらったキャラクターがペインティング系タッグチーム、マスター・ブラスターズの片割れで、その次が“不思議の国”からやって来た魔法使いのOZ(オズ)。そのあとが黒髪、黒ヒゲ、革パンツのヴィニー・ベガスで、このときの衣装がWWEでの“ビッグ・ダディ・クール”ディーゼルにつながっていた。  ある日、“プロレスの力学”みたいなものにめざめたのだろう。ディーゼルはWWE世界ヘビー級王者となり、“レッスルマニア”のメインイベントをつとめ、FA宣言でニューヨークからアトランタにUターンしてきた。  スーパースターとなって古巣に戻ってきたナッシュは、リングの上とドレッシングルームの微妙な空気の動きをはっきりと読みとれるようになっていた。  ホーガンがいて、フレアーがいる。あっちのほうにベビーフェースの“大部屋”があって、こっちのほうにヒールのラウンジがある。毎週月曜の夜、150人近いレスラーたちがバックステージに集合し、なんとなく上からの“命令”を待っていた。  ナッシュは、ホーガンの目の位置よりもさらに高いところから自分が立っている場所を見渡し、ナッシュのすぐそばでは親友ホールがいつもあたりの様子に目を光らせていた。(つづく)
斎藤文彦

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