ショーン・マイケルズ HBKは“罪つくりなキッド”――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第85話>
プロレス史にその名を残す“議論を呼ぶスーパースター”としての長編ドラマは、シングルプレーヤー転向からはじまった(1992年10月)。
ハルク・ホーガンが去ったWWEのリングで“ポスト・ホーガン”の主役になるはずだったアルティメット・ウォリアーとデイビーボーイ・スミスが薬物検査の陽性反応で解雇された。ビンス・マクマホンは“ステロイド流通疑惑”でマスメディアの標的にされていた。
1980年代からずっとつづいていた“ボディービルダー天国”のイメージを刷新するため、WWEは所属全選手にステロイド検査を実施した。
ビンスが新しい時代のキーパーソンに選んだのは、ボディービルダー・タイプではなく、レスリングの技術そのものがセールスポイントになるマイケルズと“ヒットマン”ブレット・ハートのふたりだった。
この年の“サバイバー・シリーズ”のメインイベントにはブレット対マイケルズのWWE世界ヘビー級選手権がラインナップされた(1992年11月25日=オハイオ州リッチフィールド)。このタイトルマッチこそ、それから5年後に起きる“モントリオール事件”のプロローグだった。
マイケルズとブレットの闘いには、ビンスが考えるところのプロレス=スポーツ・エンターテインメントのほんとうの定義を知るためのヒントが隠されていた。
スポーツ・エンターテインメントとは、スポーツであると同時にエンターテインメントであり、エンターテインメントであると同時にスポーツであるという特異なダブル・スタンダードを意味していることはいうまでもない。
スポーツでなければエンターテインメントで、エンターテインメントでなければスポーツであるという単純な二元論は成立しない。プロレスにはスポーツとしての“勝ち”と“負け”、エンターテインメントとしての“勝ち”と“負け”が同時に存在し、このふたつがからみ合ってひとつの結果が生じる。
ビンスはあるときはブレットを選択し、またあるときはマイケルズを選択しようとした。しかし、マイケルズもブレットも“その場所”にずっと立っていることができるのはふたりのうちひとりだけだということを知っていた。
“レッスルマニア12”のメインイベントとしてラインナップされた“60分アイアンマン・マッチ”では、マイケルズがブレットからフォール勝ちを収めてWWE世界ヘビー級王座を初めて腰に巻いた(1996年3月31日=カリフォルニア州アナハイム)。
チャンピオンベルトを失ったブレットは“休業宣言”をしていったんリングを離れ、翌1997年1月、年俸150万ドルの20年契約という破格の待遇をビンスからもぎとった。
これを不満としたマイケルズは“ヒザの故障”を理由にWWE世界王座を返上し、同年3月の“レッスルマニア13”をボイコットした。
持ち主がいなくなったベルトは王座決定戦に勝ったブレットからサイコ・セッド、セッドからアンダーテイカー、アンダーテイカーからブレットとこまかい移動をくり返した。
そして、運命の“モントリオール事件”(1997年11月9日=カナダ・モントリオール“サバイバー・シリーズ”)が起きた。
マイケルズとビンスのあいだに密約があったかどうかは永遠のミステリーということになるのだろう。
マイケルズが王者ブレットに挑戦したタイトルマッチは、マイケルズがシャープシューターの体勢に入った瞬間、リングサイドに現れたビンスがタイムキーパーにゴングを要請し、試合は唐突に終わった。
結果的にマイケルズはWWE世界王座に返り咲き、ブレットはこの試合を最後に14年間在籍したWWEを退団した。
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