ショーン・マイケルズ HBKは“罪つくりなキッド”――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第85話>
時代はものすごいスピードで動きはじめていた。やっと主役の座を手に入れたマイケルズを“ストーンコールド”スティーブ・オースチンが追いかけてきた。
ストーンコールドのすぐ後ろにはトリプルHとザ・ロック(ドゥエイン・ジョンソン)が迫ってきていた。ニュー・ミレニアムのキーパーソンたちが顔をそろえはじめていた。
持病の椎間板ヘルニアの悪化でドクター・ストップがかかったマイケルズは、ストーンコールドに敗れWWE世界王座を明け渡した試合を最後にリングから姿を消した(1998年3月29日=マサチューセッツ州ボストン“レッスルマニア14”)。
“モントリオール事件”からわずか4カ月でリング上の景色は一変していた。マイケルズはあっというまにすべてを失った。
“引退”したマイケルズは、親友ケビン・ナッシュから紹介された元WCWナイトロ・ガールズのレベッカ・カーチと結婚。サンアントニオにレスリング道場を開き、ダニエル・ブライアン(ブライアン・ダニエルソン)、スパンキー(ブライアン・ケンドリック)、ポール・ロンドンら新人を育成した。
ホームタウンに帰ったマイケルズは、敬けんなクリスチャンになった。“悪ガキ”は“悪ガキ”のままWWEのリングでスーパースターに成長し、少年時代からの夢だったチャンピオンになってたくさんの観客を喜ばせた。
どんな罪を犯し、なにを悔い改め、いかにして神に救いを求めるようになったかはマイケルズ本人にしかわからない。“ハートブレイイク・キッド(罪つくりなキッド)”と呼ばれた男は、人生の後半戦をベビーフェースとして生きることを望んだのかもしれない。
そして、4年5カ月の“引退期間”をへてリング復帰。かつての後輩トリプルHからフォール勝ちを収めて“フレアー・モデル”の世界ヘビー級王座を獲得(2002年11月17日=ナッソー・コロシアム“サバイバー・ソローズ”)。
その後はスケジュール限定で試合出場を継続し、クリス・ジェリコ、クリス・ベンワー、カート・アングル、ジョン・シーナ、バティースタといったひと世代若いWWEスーパースターとライバル物語を展開。ちょっとだけオトナになったHBKは、カッコよく負けることのできるレスラーとしての道を歩んだ。
“レッスルマニア26”(2010年3月28日=アリゾナ州グレンデール、ユニバーシティ・オブ・フェニックス・スタジアム)でジ・アンダーテイカーとのシングルマッチに敗れ引退。翌2011年4月、WWEホール・オブ・フェームで殿堂入りした。
●PROFILEショーン・マイケルズShawn Michaels
1965年7月22日、アリゾナ州フェニックス(空軍基地)出身、テキサス州サンアントニオ育ち。本名マイケル・ショーン・ヒッケンボトム。1984年10月、デビュー。WWE世界タッグ王座通算3回、インターコンチネンタル王座通算4回、WWEヘビー級王座通算4回保持(ロウ版・世界ヘビー級王座=1回を含む)。得意技はスウィート・チン・ミュージック。2010年3月、“レッスルマニア26”でのアンダーテイカーとのシングルマッチを最後に引退。2011年、WWEホール・オブ・フェームで殿堂入り。2016年、“WWEパフォーマンス・センター”のコーチに就任。
※文中敬称略
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文/斎藤文彦
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