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パリピのルーツは早稲田・慶應の学生!? 昭和・平成のパーティ文化を振り返る

 近年、よく聞くようになったワード“パリピ”。しかし、彼らがいったい何者なのかを正確に答えられる人は、意外と少ないのではないだろうか? 前回までの記事では、そんな未知の存在であるパリピの生態を徹底調査したが、今回はパーティー文化そのものの変遷を追っていこう。 パリピ

始まりはディスコだった……バブルからインスタ映えまで

 東京の各地で花開くパーティ文化。’80年代から東京のカルチャーを観察してきた文筆家の中野充浩氏にその成り立ちを聞いた。 「最初にパーティ文化が始まったのは’83年頃。早稲田や慶應などのイベント企画団体の大学生たちが、出会い目的のディスコパーティを開催したのが始まりです。当初は局地的でしたが、次第にバブルでスポンサーがつき、大規模化。六本木『マハラジャ』などの宮殿ディスコで1万人規模の合同パーティが開かれるようになります」  同じ頃、私立の高校生もディスコパーティを開催するように。 「家が裕福だし、受験もない。そんな遊ぶ時間もカネも十分にある私立の付属校の高校生たちも、大学生をマネてディスコパーティを開催。学校単位でチームをつくっていた彼らが、やがてストリート化してチーマー文化に発展します」  その後、パーティ文化は’90年代前半のバブル終焉とともに縮小化。 「『ジュリアナ東京』以降、ディスコ文化は衰退。景気悪化で男性が勢いを失う一方で、主役になったのは女性たちです。彼女たちはバブルの幻影を楽しむべく、戦闘服としてのボディコンを身にまとい、ディスコへ繰りだしていました」  景気最悪の東京で、’94年頃から活発化したのが女子高生文化。 「渋谷を中心としたプリクラ、カラオケなどに代表される女子高生のコギャル文化が花開きます。彼女たちはどんなものでもパーティのように楽しみ、その文化を口コミでどんどん広げていきました」  そして’90年代末期の世紀末。’99年の渋谷ビットバレー宣言とともに現れたのがIT起業家たち。 「既存のネット=オタクというイメージを払拭したのと同時に、彼らが開くパーティに注目が集まります。彼らはお金持ちなので、スイートルームやプールを貸し切るラグジュアリーなパーティが開催され、トレンドになりました」  ’05年頃からはオタクのポップ化によるコミケのメジャー化や、女子会開催が流行に。だが、’10年前後、東京のパーティ文化に大きな変革を与えたのがSNSだ。 「SNSの登場で、他人の目を気にする若者が増えました。結果、以前は最重要項目であった“異性との出会い”よりも“自分がどう評価されるか”を重視するため、『インスタ映え』する見栄えのいいパーティが人気に。一方でこの風潮を嫌がる人もいて、最近はSNSへの公開禁止のクローズドなパーティも増えてます。こうした新たな潮流にも今後注目ですね」
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パーティ文化の変遷
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