54歳にして発達障害だと診断された男の苦悩「なぜもっと早く気づけなかったんだろう」
「54年間の努力が水の泡になって悔しい。他にもっとやりようがあった…」
精神科で54歳にして発達障害の診断を受けた帰り道、暗い川原で石山誠さん(仮名)は泣き崩れた。今年9月まで4年間にわたって父親を介護し、看取り期には新聞配達事務所のアルバイトも辞めて専念した。発達障害の診断を受けたのは、介護の末に父を送り出してからわずか20日後の出来事である。
「自分は何かがおかしい」と感じ続け、その「何か」を探し求めてきた半生だった。
ある霊能者には「前世は茨城か栃木で生きていた幕末の志士だ」と言われ、北関東に近寄らないよう諭された。催眠術師のもとを訪れると「あなたは宇宙人である」と指摘され、理不尽な罵倒を受けた。
入信した宗教は3団体で、それぞれ2~3年ずつ過ごした。いつも感じていたのは、「この道を外れたら俺は生きていけないのに、ここで求められるレベルについていけていない」という焦りだった。これまで集会に参加したことのある宗教団体は、合わせて30を超える。
ほかにもヨガや波動、空手などの経験を通じて暗中模索する日々が続いたが、中でもエネルギーを注いだのが自己啓発セミナーだった。グループを組んだメンバーたちと交代で四方を囲み合い、「あなたはできる!」と声を張り上げた。「プラス思考を身に付けられた」と確かに感じていたが、次の日仕事に行くと上司にどやされ、すぐにうなだれてしまう自分に嫌気が差した。これらに注ぎ込んだ金額は100万円では利かない。
今年の10月に発達障害の診断を受けた石山さんだったが、精神科を訪れたのは今回が初めてではなかった。最初の受診は7年前。医者は石山さんの話をひと通り聞いた後、「社会が怖いなんてなめるな」と怒鳴りつけた。処方された抗不安剤は体に合わず、気を失って鎖骨を折った。治療にかかった半年の間に当時の仕事は辞めている。精神科には自分の求める「何か」はないと当時悟ったという。
末期がんになった父の介護を始めたのは4年前のことだった。
戦中から戦後にかけて青春時代を過ごした父との関係性は、幼い頃から難しかったという。父は、石山さんの人生に強烈に介入し続けた。大学時代に好んで取り組んだ中国拳法は、「あの師匠はだめだ」と一方的に言う父によって突然辞めさせられた。
幼少期から青年期にかけては引っ越しが多く、いつでも急に始まるのが嫌だった。あるときは朝食の途中に「公団が建った。今から引っ越す」と告げられ、家はいきなり売り払われた。石山さんはいつも唐突に幼稚園や学校を変えられ、友達作りに苦労した。
そんな父の介護に直面した際、石山さんは「なんで俺が?」と率直に感じたという。しかしながら、父とのふたり暮らしは父の年金と自身のアルバイトの収入でまかなうほかない状況で、選択肢が与えられないまま石山さんは介護と向き合っていくことになった。安くてにおいの強いタバコがよく進んだ。
夜中の2時から4時にかけて父のたんの吸引をする必要があり、石山さんは毎日欠かさずに機器で吸い続けた。睡眠すら十分に取れないままアルバイトに出かけ、ミスを繰り返しては怒られた。今になって振り返れば、積み重なる疲労によって発達障害の特性が強く表れてしまっていた結果だった。
石山さんは、チラシを数える業務に困難さを抱えていた。なぜか「5枚」と「6枚」を数え分けるのが苦手だったのだ。例えば「26枚」と「27枚」を数え分けることは問題なく出来るにも関わらず、「5枚」と「6枚」をどうしても間違えてしまう。先輩や上司も不思議に感じていたし、石山さん自身もなぜそうなってしまうのかまるでわからなかった。
「数え分け」に限らず、一連の動作を段取りよくこなす必要のある新聞配達事務所の業務は、石山さんにとって鬼門だった。新聞紙の束を運んだ後、頃合いを見て機械のスイッチをオンにし、その間に紙ゴミをエアーで飛ばす。会話は専門用語で飛び交っている。どんどん量をこなさなければならないため、メモを見る余裕もない。先輩にどれだけ手本を見せてもらってもうまくこなせず、石山さんは機器を写真に撮って復習するなどの努力をしていたが、実らなかった。後から振り返ると、時間に追われてしまうこと、またミスが許されないことがプレッシャーとなり、発達障害の特性が強く表れてしまっていた結果だったという。
「自分はおかしい」と感じ新興宗教へ
父の介護疲れで仕事のミスを連発、発達障害の特性が表れる
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