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パチンコの“勝てる期待値打法”をオヤジ打ちに変えた、ギャンブル狂なりの理由

 ギャンブルを愛してしまったからだ。

好きになると負けていく

 パチスロを好きになってしまったからだ。「遊技機」であるパチスロでは、大きく勝つ時に普段と違う動きをする。画面がブラックアウトしたり、今まで見たこともないような演出が現れたり。普段と違う顔を見せた彼らは必ずと言っていいほど僕らに大勝ちをくれる。みんなでラーメンを食べる予定が高級焼肉になる。 「へへ、ラッキーだったな」  と、見向きもしなかったパチスロ台の隠れた一面を見て高揚する自分に気づいたのだ。今まであまり打ってこなかったあの台はこんな一面もある。期待値こそプラスでないものの、その秘められた一面を一度でも直接見てやりたい。  当然、友達と乗り打ちをする時にそんな勝手はしない。だが一人で打つ時は違う。たとえ計算上は負けるとわかっていても、その時だけ勝てば関係ないだろう。そう思っていた。無論一人で打つ時だけ計算から除外されるはずもないので、たとえたまたま勝ったとしても何度も何度も繰り返せば負けていく。  パチプロは新しい台が出る時、すぐには打たない。台の情報が出て、勝てるタイミングを解析し、少し遅れてから打ち始める。  僕は新品の新しいゲームを見るために初日に打ちに行く。こうしてパチスロは稼ぐためのものから娯楽へと変わっていった。友達と一緒に打ってる間は勝てることが多かったのでうやむやになっていたが、世間とひとまわり遅れて仲間たちが進学、就職をしていくにつれて一人、また一人と減っていき、最終的には一人暮らしをしながら毎日近所のパチンコ屋に行き、現実に直面する。当然だが、パチスロは一人で適当に打てば大体負ける。  趣味で打っては負ける日を繰り返し、でも今さらストイックに勝てる台だけを探すのも面倒になった僕は、天に神様を探すようになった。 God is in the details. 神は細部に宿る。  パチスロ台の中にも小さい神様がいて、きっと僕の信仰心を見てくれるはずだ。そう思って打ち始めた。そんな都合の良い神はいないと決して知らなかったわけではない。計算通り負けていくことも知らなかったわけではない。ただ、「そうなっていった」のだ。  数字を無視するようになってずいぶん経つが、今ではストレスのない気持ちでパチンコを打てている。  18歳になるまで、僕は宇宙飛行士になりたかった。数学は得意な方だった。知らないことを知る喜びも人並み以上に感じていた。  だが受験戦争に耐えるだけの忍耐力はなかった。天才ではなかった僕は、無邪気に知識と戯れたまま行きたい大学に行けるほどの頭を持っていなかったのだ。  パチスロを覚えた時、楽して稼げると思っていた。仕組みを理解するのは難しくなかった。  だが誘惑に勝って台を選び続けるほどのストイックさを持っていなかった。同じパチンコ屋なのに、立ち回り方が違うだけで「勝ち組」のレッテルはすぐにひっくり返る。
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我慢強い人間が勝つ世界で生きる難しさ
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