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アントニオ猪木黒幕説も…「1999年の不穏マッチ」凶行を巡る“当事者の証言”

 2022年10月1日に心不全により死去した「燃える闘魂」アントニオ猪木。日本プロレス界のスーパースターとして君臨してきた猪木は、引退以降も数多くの試合に強い影響を及ぼしてきたといわれている。  なかでもプロレス史に残る“不穏マッチ”である1999年1月4日の橋本真也vs小川直也の一戦は「猪木が黒幕だったのではないか?」と今日に至るまで語り継がれてきた。プロレス考察家のジャスト日本氏が「世紀の一戦」を振り返る。(本記事はジャスト日本著『プロレス喧嘩マッチ伝説~あの不穏試合はなぜ生まれたのか?』より抜粋したものです)

背景には「猪木UFOと新日本の関係が険悪化」

橋本真也vs 小川直也

1999年1月4日、橋本真也vs 小川直也(東京ドーム・新日本プロレス 写真提供/平工幸雄)

 1999年1月4日の新日本プロレス・東京ドーム大会。この日、大会前から「何かが起こる」予感が漂っていた。  インディーのカリスマ・大仁田厚の新日本初参戦、武藤敬司とスコット・ノートンのnWoジャパン同士のIWGP戦を当時武藤との関係が悪化していた蝶野正洋がゲスト解説を務めるメインイベント、天山広吉と小島聡の「天コジ」のIWGPタッグ王座初挑戦など豪華な試合が組まれた中で異彩を放ったのが、新日本vsUFO3番勝負だった。  1998年4月4日に団体創設者・アントニオ猪木が引退し、柔道王・小川直也や佐山聡を連れて、格闘技団体UFOを旗揚げ。そこから猪木UFOと新日本の関係が険悪化していく。  紆余曲折の末、東京ドーム大会で互いのメンツを賭けた3番勝負が組まれた。新日本一勝とUFO一勝で迎えた大将戦が、橋本真也vs小川直也だった。

小川の遅刻により、高まる新日本サイドの疑心暗鬼

 橋本は試合の1か月前に高血圧でダウン、マッチメイクに不満を語ったことが原因で、小川戦を最後に無期限出場停止処分を食らい心身共に絶不調だった。一方の小川は橋本戦に向けて一時期130㎏あった体重を107㎏にまで絞り込み、ベストコンディションで挑んだ。  この試合は新日本の異種格闘技戦ルールで行うことになっていたが、細かい部分は決まっていなかった。だが小川の遅刻が原因で、試合前のルールミーティングができなかった。橋本をはじめ新日本サイドは疑心暗鬼に陥った。現場監督の長州力はすでに試合を終えていた佐々木健介と中西学に「もしこの試合で何かあったらリングに上がれ」と指示していた。  小川はオープンフィンガーグローブ、レガースを身にまとった格闘スタイルで入場。目つきは異様でぶっ飛んでいた。セコンドにはオランダの喧嘩屋ジェラルド・ゴルドーを帯同させていた。ゴルドーはかつて日本の格闘技大会で対戦相手を意図的に失明させた悪名高き危険人物。彼がUFOサイドの用心棒であることは言うまでもない。  小川の後に橋本が入場してきたが、花道の途中でいきなり小川が「橋本! 死ぬ気があるなら上がってこい!」とマイクで挑発。これは今思えばセメントマッチを仕掛けるという宣戦布告である。
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序盤から明らかに「プロレス」ではなかった
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プロレスやエンタメを中心にさまざまなジャンルの記事を執筆。2019年からなんば紅鶴にて「プロレストーキング・ブルース」を開催するほか、ブログnoteなどで情報発信を続ける。著書に『俺達が愛するプロレスラー劇場Vol.1』『俺達が愛するプロレスラー劇場Vol.2』『インディペンデント・ブルース』(Twitterアカウント:@jumpwith44

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