JASRACにケンカを売った男・三野明洋の「20年に及ぶ激闘の日々」
この10月、音楽産業最大手の一角であるエイベックスが「JASRACからの離脱」を発表。長年、JASRACのほぼ独占状態となっていた音楽著作権業界に風穴を開けるニュースとして話題になった。この“事件”の立役者が、20年間に及んだJASRACとの長い闘いの全貌を語る。
3000億円の規模を誇る日本の音楽産業の根幹をなすのは、何より「著作権」。放送、インターネット、カラオケから街場の喫茶店に至るまで、歌詞や楽曲が使われるたびに権利者への使用料が発生する。その管理業務を半世紀以上にわたって実質的に独占していたのが日本音楽著作権協会、略称JASRACだ。そんな閉塞した状況に立ち向かうべく、’00年に新たな著作権管理会社「イーライセンス」を立ち上げたのが三野明洋氏。だが、同社がJASRACと同じ土俵に立つには、それからさらに長い歳月が必要だった……。
――今年の4月、最高裁判決が出て「JASRACが他の事業者の参入を排除している」と認められました。
三野:’13年11月の東京高裁の判決で、ほぼ勝敗が決していたとはいえ、ようやく長い闘いにピリオドが打たれたという思いでしたね。東京高裁の判決の前は、担当の弁護士の先生と話しても「51対49で勝つかどうか」というくらいの話だったんです。
――JASRAC側は9割勝てると踏んでいたという話も聞きました。
三野:僕にとっては、自分たちの主張をきちんと理解してもらえるかどうかが最重要事項で、「勝った負けた」で右往左往するのは嫌だったんです。だから、東京高裁の判決当日は山にこもっていました(笑)。一番驚いたのは、翌朝新聞を買いに行ったら、朝日・毎日・読売の各紙すべての一面トップだったこと。そこまでのことをやってのけたとは夢にも思っていませんでしたね。
――そもそものきっかけは20年前、’95年に音楽プロデューサーとして森高千里のCD-ROMを制作したときだとか。
三野:「渡良瀬橋」ですね。これまでにない形式の商品だったので、楽曲の使用についてJASRACに相談したのですが、そのときに「使用料金はビデオと同じ」だと言われた。CD-ROMの販売価格をまるで無視した話で「そんな商品は作るな」と言われているようなもの。そこで「JASRACはマルチメディアを理解していない、おかしい!」と。
――このたび出された回想録「やらまいか魂 デジタル時代の著作権20年戦争 」では、そのとき、頭の中で「カッキ~ン!」と音がしたと書いていますね。
三野:「やらまいか!」と、闘志がふつふつと湧いてきました。ただ、別にJASRACをやっつけてやろうと思っていたわけじゃない。僕がそのとき強く思ったのは、時代の変化に合う著作権管理形態をつくらなければダメだ、ということ。当時はまさにコンテンツはデジタル化され、メディアはIT化されていく大転換期。その流れのなかで音楽ビジネスが発展するには、もうちょっとスマートな管理業務がなされないと困る、というのが出発点でした。
――JASRACさえ迅速に対応していれば、その後の闘いもなかった。
三野:その通り。僕がこんな仕事をやってなくてもよかったんです(笑)。
――ですが残念なことに、JASRACの対応は後手後手に回ります。
三野:CD-ROM「渡良瀬橋」についても、督促状や保証金支払いの要求が来ましたが、とても応じられる内容ではなく、膠着状態が続きました。そのなかで、僕も著作権について徹底的に勉強したんです。そして出た結論は、「JASRACの著作権管理の独占」に待ったをかけなければ何も始まらない、ということ。JASRACが時代の変化に対応できないなら、自ら著作権管理業務に参入して、公平公正かつスムーズに著作権を管理すべきではないか、と。
この後もインタビューはまだまだ続きますが、その模様は12/1発売の週刊SPA!に掲載されているインタビュー連載『エッジな人々』をご覧ください。
<取材・文/土屋 敦 撮影/尾藤能暢>
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