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ブリティッシュ・ブルドッグス誕生!――フミ斎藤のプロレス講座別冊 WWEヒストリー第57回

「フミ斎藤のプロレス講座別冊」月~金更新 WWEヒストリー第57回


 ダイナマイト・キッド&デイビーボーイ・スミスのブリティッシュ・ブルドッグスは、1984年にWWEと契約した。

写真はWWEオフィシャル・プログラム表紙より

ダイナマイト・キッドとデイビーボーイ・スミスは、カナダ・カルガリーと日本で活躍したあとWWEと契約。ブリティッシュ・ブルドッグスという新しいチーム名を与えられた。(写真はWWEオフィシャル・プログラム表紙より)

 それまでふたりがホームリングにしていたカナダ・カルガリーのスタンピード・レスリング(スチュー・ハート派)がWWEに買収され、カルガリーのトップスターだったブレット・ハート、ジム・ナイドハート、キッド、スミスの4選手だけが新たにWWEと専属契約を交わした。ブルドッグスというチーム名を考えたのはビンス・マクマホンだった。

 イングランドのランカスター生まれのキッド(本名トム・ビリントン)は、テッド・ベトラーという老レスラーのコーチを受け、1973年に15歳でデビューした。

 キッドより4歳年下のイトコでマンチェスター生まれのスミスもT・ベトラーのコーチを受け、1978年5月、15歳でデビュー。ルーキー時代はヤング・デビッドというリングネームを名乗った。

 キッドを“発見”したのは、ブレットやオーエンの兄でハート家の次男ブルース・ハートだった。カルガリーからイングランドに遠征してきたブルースは、まだ19歳だったキッドのカミソリのように鋭角的なプロレスを目の当たりにし、カナダに帰国後、父スチューに「ウチに呼ぼう」と進言した。

 キッドがカルガリーに移り住んだのは1978年の夏。スチューは身長173センチ、体重75キロのキッドをみて「これがプロレスラーなのか」とビックリしたというが、キッドの“爆弾ファイト”を目撃して、もういちど驚いた。キッドのプロレスはカルガリー・スタイルそのものを変えてしまった。

 キッドは若手ヒールとしてブルース、三男キース、ルーキーだった六男ブレットのライバルになった。それから3年後、1981年にキッドのブッキングでスミスもカルガリーにやって来た。スミスはハート家にホームステイしているうちに四女ダイアナと交際をはじめ、ふたりはカルガリーの小高い丘の上で結婚式をあげた。

 キッドは初代タイガーマスク(佐山聡)の宿命のライバルとして1年を通じてカルガリーと日本を往復するようになり、“金曜夜8時”のゴールデンタイムの人気者となった。タイガーマスクが突然引退すると(1983年8月)、こんどはその“後釜”ザ・コブラ(ジョージ高野)のライバルとしてスミスが新日本プロレスの常連となった。スミスとコブラはカルガリーでもライバル関係にあった。

 キッドとスミスは日本でタッグチームとして活動するようになったが、1984年9月、新日本プロレスから全日本プロレスへ電撃移籍して関係者を驚かせた。当時、WWEと新日本プロレスは業務提携を結んでいたためカナダ―日本―アメリカを巻き込んだビジネスのねじれ現象が生じた。

 カルガリーでも日本でもジュニアヘビーとして闘っていたキッドとスミスの体格は、WWEの全米サーキットに合流してから半年後には“別人”のようになっていた。アナボリック・ステロイド(タンパク同化剤=筋肉増強剤)を使用していることはだれの目にも明らかだったが、1980年代前半のWWEでは現在のようなドーピング・テストはまだおこなわれていなかった。

 “超人”ハルク・ホーガンとそのライバルたち、“大巨人”アンドレ・ザ・ジャイアントのいるリングでは、それでもキッドとスミスは体のちいさいレスラーだった。

 15歳からクレイジー・バンプをとりつづけてきたキッドは、WWEのリングに上がった時点ですでに故障を抱えていたが、キッド&スミスのブルドッグスは“兄弟分”ブレット&ナイドハートのハート・ファウンデーションよりも先に大きなチャンスを手にした。

 ブルドッグスがグレッグ・バレンタイン&ブルータス・ビーフケーキに挑戦したWWE世界タッグ選手権は、“レッスルマニア2”シカゴ大会のメインイベントにラインナップされた。(つづく)

斎藤文彦

斎藤文彦

※この連載は月~金で毎日更新されます

文/斎藤文彦 イラスト/おはつ

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