わずか600mでも悲願達成まで30年かかった「首都高C2内回り小菅―堀切間」の拡幅工事
―[道路交通ジャーナリスト清水草一]―
去る2月25日、首都高C2内回り小菅-堀切間の拡幅工事が完了し、3車線から4車線に広がった。拡幅延長はわずか600m。多くのみなさまにとっては、「へー、それで?」という話だろうが、首都高研究家たる私にとっては、これは悲願達成であった。
首都高C2の葛西JCT-江北JCTが開通し、常磐道・東北道と湾岸線とが直結されたのは1987年9月。約30年前のことだった。開通直後はスイスイと流れたが、数か月もすると、C2と6号線とか重複する小菅-堀切間(約1km)をネックに、ひどい渋滞が発生するようになった。
なにしろこの区間では、2車線と2車線が合流するのに3車線しかないのだから、幼稚園児でもわかる結末である。当時、首都高速道路公団に、「なぜ合流部が3車線しかないのか?」と質問したところ、「合流部は3車線と内規で決まっています」との答えが返ってきた。
「当初の予想交通量が、3車線で足りたため、必要以上の建設費をかけて4車線にすることはできませんでした」(首都高速道路公団)
いったいどんなシミュレーションをしたのかと、若かった私は激しい怒りに震えたものだ。
とにかく小菅-堀切間は、開通後間もなく、ひどい渋滞が発生するようになった。その対策として、C2外回り側は2001年に3車線から4車線へと拡幅されたが、内回り側はそのままだった。
私は2000年に出版した『首都高はなぜ渋滞するのか!?』で、「内回り側も是非拡幅が必要」と主張し、再度首都高側にその可能性を問うたが、「技術的に困難ですが、検討中です」という回答だった。
その後も「検討中」の期間が延々続いたが、ようやく10年前に都市計画決定され、ついにこうして完成に漕ぎつけたのは、ぶっちゃけ「技術が進歩したから」である。実際に現場を見ても、綾瀬川の堤防上の高架高速を一部川の上に拡幅するのは、実にアクロバットな難工事だった。
しかも都市計画決定当時、「コンクリートから人へ」を標榜した民主党政権が、高速道路の新規着工を凍結するという不運があり、結局完成まで10年を要してしまった。たずさわったみなさまの苦心には頭が下がる。
もちろん最初から4車線で設計しておけばよかったのだが、かつての首都高速道路公団は「ザ・お役所」。四角四面なお役所仕事のおかげで、我々利用者は30年間、ひどい渋滞に悩まされ続けたわけだ。
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1962年東京生まれ。慶大法卒。編集者を経てフリーライター。『そのフェラーリください!!』をはじめとするお笑いフェラーリ文学のほか、『首都高速の謎』『高速道路の謎』などの著作で道路交通ジャーナリストとしても活動中
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