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“ヒットマン”ブレット・ハート 心のシャープシューター――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第74話>

 レスリング・ファミリーに生まれたブレットにとって、チャンピオンベルトは単なるアクセサリーではなかった。そして、ブレットはビンスとの関係に中途半端なハッピーエンドを求めなかった。  ふたりのプロレス観のちがい、モントリオールの運命の日を迎えるまでのさまざまな確執、この試合直後のバックステージの混乱シーンは映画『レスリング・ウィズ・シャドウズ』に克明に描かれている。  ブレットはライバル団体WCWに電撃移籍したが、WWEに残留した弟オーエンのリング上での死亡事故という痛ましいアクシデントがブレットとハート家を襲った(1999年5月23日=カンザス州カンザスシティー)。  ブレット自身もゴールドバークとの試合中に脳しんとうを起こし、その後遺症が原因で引退を決意。  それから2年後、カルガリー市内のサイクリング・コースを自転車で走行中に脳こうそくで倒れた(2002年6月26日)。  母ヘレンさんの死、弟のような存在だったスミスの死、そして最愛の父スチューの死。不幸がブレットを追いかけてきた。  それでも、ブレット・ハートの物語は終わらなかった。カルガリーの地元新聞『サン』にブレットが執筆していた連載コラムのなかにはこんな一節があった。 「人生の半分を費やして傷つき、あとの半分を使ってそれを癒すなんて生き方は馬鹿げている。Life goes on』  ブレットにとって、人生はまだハーフ・ウェイにさしかかったばかりだった。脳こうそくでマヒした左半身は、2年間のリハビリ・プログラムで70パーセントくらいまで感覚をとり戻した。  2005年、オリジナルDVDのプロデュースをきっかけにWWEと和解した。翌2006年、WWEホール・オブ・フェームで殿堂入り。2010年には父スチュー・ハートもWWEホール・オブ・フェームで殿堂入りし、このときはブレットがインダクターをつとめた。  そして“モントリオール事件”から13年後の2010年、“レッスルマニア26”ではビンス・マクマホンと“ノー・ホールズ・バード・ランバージャック・マッチ”で対戦。  ハート・ファミリーがランバージャックとしてリングをとり囲み、ブレットの兄ブルース・ハートが特別レフェリーをつとめたこの試合は、ブレットがイス攻撃のメッタ打ちでビンスをKO。  長かった因縁の歴史についに終止符――ハート家とマクマホン家の和解――を打った(2010年3月28日=アリゾナ州グレンデール、ユニバーシティ・オブ・フェニックス・スタジアム)。  ブレット・ハートは、ハルク・ホーガンやリック・フレアーとはまた別の意味で、20世紀のプロレス史にもっとも影響力を持ったスーパースターだった。  “プレーン、シンプル、グッド・レスラー”だったブレットは、偉大なる父スチュー・ハートがそうであったように、みんなにリスペクトされ、ちゃんと長生きして、プロレスの語り部になるのだろう――。 ●PROFILE:ブレット・ハートBret “Hitman” Hart 1957年7月2日、カナダ・アルバータ州カルガリー出身。キャッチフレーズは“The best there is, the best there was, the best there ever will be”。1991年6月から2004年10月までカルガリーの地元新聞『カルガリー・サン』に連載コラムを執筆。“レッスルマニア12”でのショーン・マイケルズとのタイトルマッチ=60分アイアンマン・マッチはプロレス史に残る名勝負として語りつがれている(1996年3月31日=カリフォルニア州アナハイム、アローヘッド・ポンド)。1997年11月、WWEを退団し、ライバル団体WWCに電撃移籍。WCW世界ヘビー級王者にもなった。2000年10月、引退試合をおこなわずにリングを降りた。2006年、WWEホール・オブ・フェームで殿堂入り。 ※文中敬称略 ※次回更新は5/14(月)予定です 文/斎藤文彦
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