“ヒットマン”ブレット・ハート 心のシャープシューター――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第74話>
1990年代を代表するスーパースターで、ビンス・マクマホンをぶん殴ってWWEをやめたただひとりのスーパースターだった。
1984年から1997まで14年間、WWEに在籍し、リングの上の主人公であったと同時にドレッシングルームのリーダーとしてレスラー仲間、団体スタッフ、ツアー・クルーからの人望も厚かった。
性格的にもキャラクター的にもプロレスラーのタイプとしても典型的なベビーフェースだったが、みずからすすんでヒールを演じた時代もあった。
ブレット・ハートは、スチュー・ハート家の12人の子どもたちの上から8番め、六男坊として生まれた。
ハイスクール時代はアマチュア・レスリングで活躍したが、それにはふたつの理由があった。
ひとつは父スチューを喜ばせるためで、もうひとつはそれが1日でも早くプロレスラーになるための近道と考えたからだった。ブレット自身はアマチュア・レスリングをどうしても好きになれなかったという。
プロレスはハート家の家業だから、デビュー戦がいったいいつだったかは記録に残っていない。
少年時代は試合会場の入り口でチケットをもぎったり売店でプログラムやブロマイド写真を売る仕事を手伝っていたし、ハイスクール時代はリングの設営と撤収、レフェリーの見習いもやっていた。
大学へ通った時期もあるが、週末と夏休みはずっとアリーナのなかにいた。けっきょく、大学は2年でやめた。
実家のベースメントの地下牢=ダンジェンでブレットにプロレスのコーチをしたのはふたりの日本人レスラー、ミスター・ヒト(安達勝治)とミスター・サクラダ(桜田一男=ケンドー・ナガサキ)だった。
スチューはなにもいわなかったけれど、カルガリーに住んでいたふたりのベテランのジャパニーズ・ヒールは、兄弟のなかでいちばんレスラーとしての素質があるのはブレットだと考えた。プロの目は正しかった。
地元カルガリーの“スタンピード・レスリング”のリングに上がっていた時代のライバルは、ブレットよりもひとつ年下でイギリスからカナダにやって来たばかりのダイナマイト・キッドだった。
ブレットがベビーフェース、キッドはヒールというポジショニングでふたりは数え切れないくらい闘った。しばらくすると、キッドのイトコでまだ17歳だったデイビーボーイ・スミスもカルガリーに転戦してきた。
1980年代に入るとザ・コブラ(ジョージ高野)、サニー・トゥー・リバース(平田淳嗣)、ヒロ斉藤ら日本人レスラーたちがメキシコから北上してきてカルガリーのサーキットに合流した。
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