更新日:2022年12月28日 18:07
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ジ・アンダーテイカー “怪奇派キャラクター”の最高傑作――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第75話>

ジ・アンダーテイカー “怪奇派キャラクター”の最高傑作<第75話>

連載コラム『フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100』第75話は「ジ・アンダーテイカー “怪奇派キャラクター”の最高傑作」の巻(Illustration By Toshiki Urushidate)

 WWEがプロデュースした“怪奇派”キャラクターの最高傑作である。  ハルク・ホーガンからブレット・ハート、“ストーンコールド”スティーブ・オースチンとザ・ロックとトリプルHのミレニアム世代、ジョン・シーナ、ブロック・レスナー、ローマン・レインズまでその時代ごとのキーパーソンたちとつねにメインイベンターのポジションを共有してきた大御所で、バックステージのオピニオン・リーダーでもある。  プロレスラーとしてのデビューは1987年3月。テキサス州ダラスのスポータトリアムで、マスクマンのテキサス・レッドとしてブルーザー・ブロディと対戦した。  アンダーテイカーにプロレスをコーチしたのはバズ・ソイヤー、ダッチ・マンテル、ドン・ジャーディーンの3人だったとされるが、このデータは“公式プロフィル”からは抹消されている。  ツームストーン・パイルドライバーと並ぶシグナチャー・ムーブの“ロープ歩き”オールドスクールは、現役時代にこのムーブを十八番としていた初代スーパー・デストロイヤー(ドン・ジャーディーン)から伝授された。  ルーキー時代は黒マスクのザ・パニッシャー、素顔ではマスター・オブ・ペイン、“パニッシャー”ダイス・モーガンといったリングネームでダラス、シカゴのインディー団体、テネシーをサーキット。  ダラスWCCWのテレビ番組を観たジム・ロスJim Ross(当時はWCWのTVアナウンサー)が無名の新人パニッシャーをWCWにスカウトした。  WCW時代のリングネームはミーン・マーク・キャラスで、ダニー・スパイビーDanny Spiveyとのコンビでザ・スカイスクレイパーズというタッグチームを組んだ。  ジ・アンダーテイカーに変身したのは1990年。WWEでのデビュー戦となった“サバイバー・シリーズ”では、“ミリオンダラー・チーム”テッド・デビアス&グレッグ・バレンタイン&ホンキートンク・マンのミステリー・パートナーとして8人イリミネーション・タッグマッチに登場し、“ドリーム・チーム”ダスティ・ローデス&ブレット・ハート&ジム・ナイドハート&ココ・B・ウェアと対戦した(1990年11月22日=コネティカット州ハートフォード)。  “怪奇派”のキャラクターづくりを提案したのはWCW時代のツアー仲間で当時はまだ悪党マネジャーだったポール・E・デンジャラスリー(ポール・ヘイメン)で、この企画原案を“墓掘り人”として完成品にしたのは“にせ牧師”ブラザー・ラブBrother Love(ブルース・プリチャード)だったとされる。  考えてみると、アンダーテイカーとヘイメンの付き合いはひじょうに長い。“魔界”からやって来たアンダーテイカーは人間のことばは話さないから、専属マネジャーには“葬儀屋”ポール・ベアラーPaul Bearer(本名ビル・ムーディー)がキャスティングされた。  翌年の“サバイバー・シリーズ”では、アンダーテイカーはホーガンを下しWWE世界ヘビー級王座を獲得(1991年11月27日=ミシガン州デトロイト)。  それから6日後に開催されたPPV“テューズデー・イン・テキサス”での再戦はノーコンテスト裁定に終わり、王座は空位となった(1991年12月3日=テキサス州サンアントニオ)。  “テューズデー・イン・テキサス”は、平日の夜にPPVをプロデュースした場合の有料契約世帯数をリサーチするための実験的イベントだった。  翌1992年1月からはホーガンの“引退ドラマ”がスタートしたため、アンダーテイカーとホーガンの因縁ドラマはここで終わった。
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存在そのものが“長編ドラマ”
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