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スティング “真実の瞬間”を探して――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第76話>

スティング “真実の瞬間”を探して<第76話>

連載コラム『フミ斎藤のプロレス講座レジェンド100』第76話は「スティング “真実の瞬間”を探して」の巻(Illustration By Toshiki Urushidate)

 WCWの生誕からその崩壊までをいちばん近くで目撃した“ミスターWCW”である。

 あるときはリック・フレアーの後継者として、またあるときはハルク・ホーガン派閥とは一線を画す“隔離”されたスーパースターとして、つねにWCWの主人公を演じつづけた。

 トレードマークの金髪のスパイク・カットがゆっくりと時間をかけて黒のロングヘアに変化し、アイドル的存在だったスティングがだんだんとダーク・サイドに足を踏み入れていく長編ドラマが1990年代後半の月曜夜のTVショー“マンデー・ナイトロ”の基本モードだった。

 ロサンゼルス郊外ベニスビーチの“ゴールド・ジム”でインストラクターをしていたスティングは、スカウトされてプロレスの世界に入った。

 ロード・ウォリアーズの出現は、ボディービルダーのプロレス転向を1980年代のひとつのトレンドにした。

 スティングは、“レッド・バスチェン道場”でプロレスの基本を学んだ。トレーニング・パートナーはローカルのボディービルダー、ジム・ヘルウィグだった。ヘルウィグとは、のちのアルティメット・ウォリアーのことである。

 スティングとウォリアーは、いまでいうところの就職活動としてポーズ写真付の履歴書セットをアメリカじゅうのローカル団体に郵送した。ウォリアーズによく似たルーキーに興味を持ったのはテネシーのプロモーター、ジェリー・ジャレットだった。

 1985年11月、ふたりはタッグチームとしてテネシーのリングでデビューした。チーム名はフリーダム・ファイターズ(ジャスティス&フラッシュ)、ブレード・ランナーズ(スティング&ロック)とコロコロ変わった。

 名もない新人にとって、プロレスは思っていたほどお金にならない仕事だということに気がつくまでにそれほど時間はかからなかった。

 ブレード・ランナーズはルイジアナに移動し、それからウォリアーだけがダラスWCCWに転戦した。ふたりはコンビを解散し、それぞれの道を選むことになった。

 スティングがルイジアナMSWA(ミッドサウス・レスリング・アソシエーション=ビル・ワット派)在籍中に団体名がUWF(ユニバーサル・レスリング・フェデレーション)に変わり、1987年にUWFがNWAジム・クロケット・プロモーションに吸収合併され、そのNWAクロケット・プロも翌1988年にターナー・エンターテインメント社に買収されてWCWが誕生した。

 スティングは、新団体WCW(ワールド・チャンピオンシップ・レスリング)の発足メンバーのひとりとしてジョージア州アトランタに送り込まれた。

 出世試合はリック・フレアーとの“45分ドロー”の死闘(1988年3月27日=“クラッシュ・オブ・チャンピオンズ”)。NWAがWWEの“レッスルマニア4”の同日・同時間帯に“裏番組”としてぶつけた特番のメインイベントだった。

 スティングはその後、フレアーからNWA世界ヘビー級王座を獲得した(1990年7月7日=メアリーランド州ボルティモア“グレート・アメリカン・バッシュ”)。

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プロレスっていったいなんだろう。“内なる声との対話”のくり返し

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