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喫煙所の“主”の戦いは、抵抗むなしく7時間で終了した――patoの「おっさんは二度死ぬ」<第32話>

そして、甲斐さんの孤独な戦いが始まった

 甲斐さんのタバコ休憩は度を越している。常軌を逸している。完全に仕事をしていないレベルだ。僕も他の2人も、甲斐さんほどではないにしろこうして仕事をしない時間がある。それって普通に受け入れてるけど、よくよく考えたら認められて良いものなのだろうか?  タバコを吸う人間だけが特権のように認められるタバコ休憩、それが職場の大部分の人がやっているというのなら理解もされるだろうが、4人だけである。たった4人だけに与えられし特権、こんなものそうそう長いこと認められないんじゃないか。世の中、そんなに甘くないんじゃないだろうか。  そんな悪い予感は的中した。  まずタバコの臭いが迷惑という指摘が職場のあちこちから相次いだ。完全禁煙だとか分煙だとかそういった世間の流れにも反するという指摘もあった、それ以上に、タバコ休憩で仕事をしてない人がいる、という苦情が相次いだ。タバコに厳しい風潮が社会全体でも始まった頃で、その流れに乗った形だ。  まず、最初に採られた処置が、タバコの臭いをなんとかブロックして喫煙所を存続させようというものだった。即座に透明のアクリル板で喫煙所を囲むことになった。巨大な透明ケースの中でタバコを吸う甲斐さんの姿はそういったオラウータン的な動物のようだった。  けれども、アクリル板ではタバコの臭いは防げなかった。普通に考えてアクリル板でブロックできるものではない。もう喫煙所の撤去やむなしという世論が形成されつつあった  僕は漠然と、やはり一部の人間だけ認められるタバコ休憩って歪な状態だし、そうなるよね。喫煙所がなくなったらタバコやめるかなあ、と漠然と考えていた。ただ、オラウータンは違った。 「なんとしても撤去を阻止しなくてはならない。なんのために職場にきていると思ってるんだ!」  いや、仕事しにきてくださいよ、と思ったけど僕も似たようなものなので強く言えなかった。  具体的な撤去日がアクリルの板に張り出された。猶予は1週間、それでこの喫煙所は終わる。そろそろ年貢の納め時、タバコやめるかあと考え始めていた。 「こんなことが許されるはずがない! 反対運動だ! タバコを吸う自由を!」  甲斐さんの鼻息は荒かった。絶対に阻止してやる、そう言ってゴールデンバットを咥えこんでいた。  それから数日経過し、もう撤去まであと僅かという時、いつものように喫煙所に行くと甲斐さんがいつものように鎮座しておられて、神妙な表情で1枚の紙を差し出してきた。 「なんですか、これ」  僕の問いかけに、甲斐さんはさらに神妙な表情をしてこたえた。 「喫煙所撤去に反対する署名だ。ここ数日で必死になって集めた。これをもって上に掛け合う」  なるほど、数日おとなしかったのはこれか。きっと各部署を回って必死に署名を集めたんだな、やるじゃん。けっこうな数が集まってれば撤去撤回もあるかも、と思って肝心の署名を見ると、3人しか書いてなかった。3人だ。3人。これだけちょっとしか書かれていない署名って初めて見た。  「3人しかいないじゃないですか」  「みんなかいてくれなかった」  みると、署名を書いているのは甲斐さんと喫煙所常連の2人だけだった。つまり、ここに僕が署名しても4人、しかもいつも使っている常連だけだ。逆を言えば、それ以外全員に反対されていることになる。  「もう諦めましょう、これも時代の流れですよ」  深いため息をつきながらそう言うと甲斐さんは首を横に振った。  「絶対に諦めない。撤去なんてさせない。喫煙所がなくなったら何のために仕事にきているのか分からなくなる」  「いや、仕事しにきてくださいよ」  ついに言葉に出して言ってしまった。もう年貢の納め時だ。あんなことがいつまでも許されるわけがないのだ。僕らは仕事をするべきなのだ。ただ、僕の言葉に対して、甲斐さんは意外にも笑顔を見せてこう言った。  「まだまだ甘いな。喫煙所とはただタバコを吸うためだけの場所ではない。これは仕事なんだ」  おそらく、喫煙所でタバコを吸いながら円滑にコミュニケーションをとるだとか、人間関係をよくするだとか、情報収集をするだとか、そういう意味合いのことが言いたいのだろうと思う。けれども、その結果が署名3人だ。3人だぞ。全員に敵視されてるじゃないか。全然円滑なコミュニケーションできてないじゃないか。
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いつか甲斐さんに教えたい、黄金のコウモリのことを
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