元『egg』モデル、黒ギャルから保育士に「見た目よりも中身」
“ゆきぽよ”の愛称で親しまれる木村有希など、多くのギャルタレントを輩出してきた雑誌『egg』(大洋図書)。当時の読者モデルたちは雑誌を卒業後、テレビで活躍する人もいれば、結婚して主婦になったり、キャバ嬢になったり、一般企業に勤めていたり……。その進路は実にさまざまである。
まずは、どのようにして『egg』モデルになったのか。宇津木さんが当時を振り返る。
「小学生のときに『GALS!』という漫画が流行って、主人公の寿蘭に憧れたんです。それで、私服はなんとなくギャルっぽくしていたんですが、実際に肌を焼いて、髪にメッシュを入れたのは高校を卒業してからでした」
遅咲きのデビューだった。ギャルに対して憧れはありつつも中学・高校までは黒髪で、盛り髪にすることはあれど、ウィッグを付けていたという。実は、高校にはソフトテニスと学業の特待生で入学するほど成績優秀だったのだ。
晴れてギャルの見た目になった宇津木さんは、『egg』の読者投稿ページに写メを送った。すると、編集部から連絡があり、まずは『egg』の姉妹誌でストリートスナップに呼ばれた。そこから『men’s egg』などの兄弟誌からも声がかかるようになり、企画の表紙ページにも大きく掲載された。こうして、徐々に『egg』本誌でもモデルとして登場するようになったという。
「当時は静岡に住んでいて、横浜の保育士の専門学校に新幹線で通っていたんです。そこから撮影の時は編集部のある渋谷まで出て。ただ、最初は自分がモデルだとは思っていなかったんです。『モデル相関図』という企画に名前を載せてもらって、ようやく『存在が認められたんだな』って実感しました」
雑誌に出るようになってから、ヤマンバギャルのサークルにも入った。日サロは週3回、いちばん強いマシンに入っていた。お金を節約するために、日サロでアルバイトを始めた。屋外に出て太陽光で肌を焼く“天サロ”の様子がテレビで紹介されることもあったという。
黒ギャルやマンバだった頃、親から否定されたことはなく「見た目よりも中身が大事」と言われて育った。そんな宇津木さんは、なぜ保育士を目指したのか。その原体験は、フィリピンと日本のハーフとして過ごした幼少期にあったと語る。
「私の母がフィリピン人なんですよ。言葉はカタコトで、住んでいたのが静岡の田舎だから、まわりには外国人なんていなくて。学校でもハーフは私ひとりだけだった。普通に生活しているだけでヒソヒソ話をされることもあって。幼い頃からどこか違和感がありました。
小学校と中学校の時に、職業体験で保育園に行く機会があったんです。子どもたちは私がハーフとか関係なく接してくれて。それまでの学校生活では“変わった人”と見られてしまっていたけど、子どもたちにとっては“ひとりの人間”なんだなって。それで、自分が先生になって、ひとりひとりの個性を大切にしてあげて、次の子どもたちにも繋いでいきたいと思ったんです。もしも自分と同じ悩みをもつ子どもがいるならば、嫌な気持ちにならない社会を幼い頃からつくってあげたいなって」
見た目で差別されてしまうことは、ギャルになってからも同じだった。地元にギャルはおらず、道を歩いているだけで「ゴキブリ」「汚い」「生きた化石」と揶揄された。その経験は、保育士になりたい気持ちをより一層強くさせたという。
「やっぱり子どものうちから個性や多様性を認められるようにしなくちゃって。それを自分が伝えて浸透させることで、みんなが明るくハッピーに暮らせるようにしたい」
かつて『egg』で黒ギャルモデルとして異彩を放っていた“でみちゃん”こと宇津木秀美さん(27歳)。彼女は現在、東京都目黒区で保育士として第二の人生を歩み始めている。その経緯とは、一体どのようなものだったのか?
読者投稿ページから『egg』モデルに抜擢
保育士を目指したワケ「見た目よりも中身が大事」
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明治大学商学部卒業後、金融機関を経て、渋谷系ファッション雑誌『men’s egg』編集部員に。その後はフリーランスとして様々な雑誌や書籍・ムック・Webメディアで経験を積み、現在は紙・Webを問わない“二刀流”の編集記者。若者カルチャーから社会問題、芸能人などのエンタメ系まで幅広く取材する。X(旧Twitter):@FujiiAtsutoshi
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