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スナックが競馬ファンの鉄火場と化した日。博打に酔うのか酒に酔うのか…

競馬の血統の本が愛読書の男

 五月末、今年の日本ダービーが開催された。  一年三六五日競馬を楽しめる競馬大国日本だが、国際格付された日本ダービーで優勝した馬はダービー馬と呼ばれ、一年間の競馬を象徴する馬として価値を誇る。  G1ダービー当日、うちのスナックは完全に賭博場と化していた。  カウンターの上には競馬新聞が散らばり、皆酒もそこそこに視線は背後のモニターへ、片手に握りしめたスマートフォンには即PAT(JRAのネット投票サービス)の馬券購入画面が映し出されている。真っ昼間から薄暗い地下に集った人々は、8レース、9レースと順繰りに予想し、来るべきメインレースに備えていた。 「行け!差せ差せ~!」  カウンターの向こうではそんな声が飛び交う。  中でも一番気合いの入った声を上げていたのはマッチだった。  彼は、店のお客たちの中で誰よりも競馬に溺れている男である。立派な会社員だが、休日は1レースから最終レースまでずっと競馬、昼間も少しの合間を縫って競馬、愛読書は競走馬の血統の本で、この世から競馬が無くなったらたぶん死んでしまう彼を、わたしは敬意と悪意両方を込めて「競馬廃人」と呼んでいる。  実際にやってみると、競馬は案外楽しい。賭ける楽しさももちろんだが、馬を知るほどに色んなドラマがあるし、何よりレースのためだけに鍛え上げられた競走馬が走っている姿は美しい。マッチも馬の写真や本を熱心に読みこんでいるから、そういう馬の魅力全てをひっくるめて競馬の虜になっているのかと思いきや、聞いてみると全然そうではなかった。 「馬畜生のことなんてどうだって良いんだよ俺は!」  ビールをがぶがぶ飲みながら彼は言い放つ。 「勝てる馬を見抜くためだけに勉強してんだ! 当たんなきゃ意味がねぇんだ!」  さすが廃人様のお言葉。レースの緊張感と高揚感、そして買い目が当たった時の歓喜、アドレナリンの奴隷である。馬が美しいなどと呑気なことを言っているわたしはギャンブラーではないのだと思い知らされる。「人生には真の魅力はただ一つしかない。それは賭博の魅力だ」とボードレールは言った。  高らかにファンファーレが鳴り響き、メインレースの日本ダービーが始まった。  皆、固唾を呑んで馬の入場を見守り、発走と共に一斉にモニターに向かって声を上げる。 「いいよいいよ~、5番その調子~」 「馬鹿野郎っ! 6番それ以上来るんじゃねぇっ!」  人生のただ一つの魅力である賭博(競馬)に持てる知恵と情熱の全てを注ぎ込んだマッチの夢は惜しくも敗れ去った。ちなみにわたしは掠りもしなかった。
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俺たちのダービーはこれからだ
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(おおたにゆきな)福島県出身。第三回『幽』怪談実話コンテストにて優秀賞入選。実話怪談を中心にライターとして活動。お酒と夜の街を愛するスナック勤務。時々怖い話を語ったりもする。ツイッターアカウントは @yukina_otani

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