スポーツ

元プロ野球選手として初の医師を目指す男の軌跡

国立大に進学するも3か月で休学

 寺田は高校野球の悔恨からプロを目指すようになる。だが、高校卒業後、国立三重大教育学部に進学するも、たったの3か月で休学してしまった。その理由を聞いた。 「戦えるレベルで力をつけたいと考えていました。野球の強豪私立とかは考えてなく、国公立で野球がしっかりしているところに行きたいと思って三重大の教育学部に入りました。ただ、想像していた以上にレベルが高くて、『プロはちょっと厳しいかな』と思ってしまったんです。野球ができないのなら教育学部にいる意味がないと思い、ゆくゆくは医者になるのかなと心の中にあったものですから、休学して医学部を受け直すことにしました」  蛙の子は蛙か……。やはり自分は医者になるのだという思いがどこかにあり、寺田は医学部を受け直すため休学して受験勉強を始める。そして、国立三重大の医学部を受験したのだが、二次試験で不合格。大学に籍を置いたまま、翌年再チャンレンジすることを決意する。 「文武両道と言われますけど、野球なら野球、勉強なら勉強と一つのことに集中するタイプだったので、高校時代は学年でも下から数えて10番以内でした。休学2年目の5月くらいまで勉強していたんですが、次第にモチベーションが下がり、バイトとかもするようなったんです」  以前、野球が強くて偏差値も高い全国有数の進学校の選手数百人に取材して分かったことが、限られた時間内で効率良く密度の濃い練習を一生懸命やれば、いくら体力のある十代といえどもヘトヘトになり、ほとんどの者が帰宅してから勉強していない。しかし、引退後の成績の伸び幅はかなりのものがあるとも言われる。元々の地頭に加え、野球で鍛えた集中力と体力が勉強を効率よくこなし成績アップに繋がるのだろう。

後輩の誘いで筑波大学へ進学

 もちろん寺田も仮面浪人中、持ち前の集中力を生かし勉強に励んだ。とはいえ国公立の医学部に受かるには並大抵の努力をしていても突破できない。大手予備校には国公立医学部受験コースが設けられているほど、エキスパートな対策を強いられる。それでも2浪3浪は当たり前の世界である。 「バイトしながらもトレーニングは続けていたんです。そんなときに筑波大学に行った後輩が帰郷していてキャチボールをしたんです。『先輩、球速くなってますよ! うちに来てください。うちだったらプロも狙える大学ですから』って言うんです。 勉強もしてなかったため医学部を受けられるほどの学力はありませんでした。やっぱり野球がやりたいという思いが沸沸とわいてきて、だったら筑波を受けてみようと思いました」  もともと国公立の医学部を狙っていた学力があっただけにセンター試験は難なくクリアし、二次試験で実技が重要視される筑波大学体育学群に合格する。しかし、結果的に2浪した形で入った筑波大学野球部では、寺田にとって厳しい現実が待ち構えていたのだった。(※近日公開の後編に続く)
1968年生まれ。岐阜県出身。琉球大学卒。出版社勤務を経て2009年8月より沖縄在住。最新刊は『92歳、広岡達朗の正体』。著書に『確執と信念 スジを通した男たち』(扶桑社)、『第二の人生で勝ち組になる 前職:プロ野球選手』(KADOKAWA)、『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『偏差値70の甲子園 ―僕たちは文武両道で東大を目指す―』、映画化にもなった『沖縄を変えた男 栽弘義 ―高校野球に捧げた生涯』、『偏差値70からの甲子園 ―僕たちは野球も学業も頂点を目指す―』、(ともに集英社文庫)、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『史上最速の甲子園 創志学園野球部の奇跡』『沖縄のおさんぽ』(ともにKADOKAWA)、『マウンドに散った天才投手』(講談社+α文庫)、『永遠の一球 ―甲子園優勝投手のその後―』(河出書房新社)などがある。

92歳、広岡達朗の正体92歳、広岡達朗の正体

嫌われた“球界の最長老”が遺したかったものとは――。


確執と信念 スジを通した男たち確執と信念 スジを通した男たち

昭和のプロ野球界を彩った男たちの“信念”と“生き様”を追った渾身の1冊

1
2
テキスト アフェリエイト
新Cxenseレコメンドウィジェット
おすすめ記事
おすすめ記事
Cxense媒体横断誘導枠
余白
Pianoアノニマスアンケート