「2020年の東京も焼け野原だ」コロナで失職、Uber配達員として駆け抜けた日々の記録
2020年春。緊急事態宣言下、人影がまばらになった東京で唯一駆け回っていたのは自転車配達員たちだった――。映画誌、映画評論家などから高評価連発の映画がある。その名も『東京自転車節』。監督自身が「Uber Eats」の配達員として、未曽有のパンデミックのなかを生き抜く人々を描いた自撮りドキュメンタリーだ。公開を記念して、監督の青柳拓氏を、前後編に渡ってのインタビューをお届けする。
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――まず青柳監督は、コロナ禍にUber Eats配達員になったきっかけを教えてください。
青柳 もともとは地元・山梨を拠点に映像制作をしながら、それだけでは食えてないので運転代行の仕事もしていました。夜21時から夜中の2時くらいまで働き、日給は5~6千円。コロナで飲み屋街が閉まってしまい、運転代行の仕事も事実上休業。困っていたなかで、お世話になっている映画プロデューサーから「Uberで稼ぎながら映画撮るのはどう?」と勧められたのがきっかけです。当時、次回作のテーマに「奨学金を返す映画」という構想があったので、「これは叶いそうだな」と。
――奨学金というのは、ご自身の?
青柳 はい。僕は川崎にある「日本映画大学」出身で、5年かけて卒業するも“550万円もの奨学金という名の借金”を背負ってしまって……。だから奨学金を返すドキュメンタリー映画として、マグロ漁船に1年間乗って返していくのを考えていて。既に乗せてもらうマグロ漁船とも具体的な話を詰めていたのですが、それもコロナのせいで頓挫です。
――そのため、「Uberで稼ぎながら映画を撮る」という企画に乗ったのですね。
青柳 そうです。映画は最初の緊急事態宣言が出された’20年の4月から6月にかけて、配達員をしながら撮影しました。
――東京が本当にガラッと変わった最初の時期ですね。監督の目にどう映りましたか?
青柳 山梨の田舎に住んでいるので、「東京、意外と人が出てるじゃん」って思いましたね(笑)。でも、学生時代に東京に住んでいたこともあるし、賑わいを知っている。やはりコロナ前に比べたら人が凄く少ない。特に異様に感じたのは、“人の声がしない”こと。街には人はまあまあ出ているのに、全員マスクで声を出さない。だから街中には、街頭ビジョンの広告映像の音だけが鳴り響く……。生きているのか、死んでいるのか、わからない物体がうごめいているようで本当に異様でした。
――当時の監督のコロナ観は?
青柳 当時の東京は、山梨から見たら完全に感染地帯。地元の人からは「東京行ったら感染するぞ」と、みんな言ってましたし。
――当時の空気感からしたら、そう思うでしょうね。
青柳 映画を撮りに東京に行くなら、山梨には帰ってきてはいけないと思っていましたね。当然、気をつけてはいましたが、コロナに感染する前提で出発したところもありました。
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配達員がコロナ禍の東京をチャリでかけめぐる、自撮りドキュメント映画
人の声がしない繁華街
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