ウォリアーとスティングの“運命の糸”――フミ斎藤のプロレス講座別冊 WWEヒストリー第80回
ウォリアーとスティングは、アメリカじゅうのプロモーターにポーズ写真と履歴書を郵送した。バースマンは「オレがオーディションを探す」と説得したが、ふたりは“ゴールド・ジム”からの脱出を試みた。新人の“願書”に返事をくれたのはテネシー州メンフィスのプロモーター、ジェリー・ジャレットだった。お金がなかったふたりはLAからメンフィスまで2日がかりで自動車で移動した。
1985年11月、サンクスギビングデーの夜、スティングとウォリアーはR・ウォリアーズのコピー版のようなタッグチーム、ザ・フリーダム・ファイターズ(ジャスティス&フラッシュ)として正式にデビューした。この時点でウォリアーは28歳、スティングは26歳。どちらかといえば、ふたりとも遅れてきたルーキーだった。
プロモーターのジャレットはふたりをヒールに変身させ、ザ・ブレード・ランナーズ(ロック&スティング)というチーム名を与えた。近未来の都市生活を描いたSF映画『ブレードランナー』が大ヒットした時代だった。ウォリアーがロックというリングネームを使っていたという事実はちょっとしたトリビア・ネタといっていい。
B・ランナーズはその後、メンフィスからルイジアナUWF(ビル・ワット派)に転戦。1986年8月、ウォリアーがダラスWCCW(ワールドクラス・チャンピオンシップ・レスリング=フリッツ・フォン・エリック派)に活動の場を移したが、スティングはルイジアナに残留。ふたりはタッグチームを解散した。
1987年4月、NWAクロケット・プロがUWFを吸収合併すると、スティングはそのままNWAと再契約を交わした。NWAプロデューサーのダスティ・ローデスがキャリア2年のスティングに提示した年棒は5万2000ドルという前座ランクだったが、ローデスとの出逢いがやがてスティングをアトランタ=WCWへと導いていく。
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