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幼少のころ食べた「挽き肉のすき焼き」に貧しくとも感じた母親の愛情

 幼少時代、貧困だった人間にも、苦労を笑顔に変えるご馳走があった。母が、父が、祖母が作ってくれたその料理は、質素でありながらも、彼らにとって忘れることのできない思い出として残っている。そんな「貧困飯」を、悲しくも愛情に満ちた数々のエピソードとともに紹介する感動企画。  飽食の時代といわれる昨今とは違い、昭和の食卓には貧しさに抗うべく手作り料理のアイデアが溢れていた。世代ごとに異なる貧困飯。当時の世相と合わせて振り返ってみる。
挽き肉のすき焼き

《挽き肉のすき焼き》飽食の現代において決しておいしい食べ物ではないが、この甘さが子供を喜ばせたのだろう

父親が酔って暴れた翌日はすき焼きが出ました

市力ひろしさん(仮名・50歳・東京都生まれ・会社員)  ’70年代、上野界隈は貧富の差が激しい地域だった。上野で生まれ育った市力さんは両親と姉の一家4人で、「貧乏長屋」で暮らしていた。 「父親が商売で失敗して、家は貧乏でした。俺が生まれたときには、父親は完全にアルコール依存症で、毎日、飲んだくれてました。主食はもらいものの素麺。ぶよぶよになるまで茹でて腹を満たして、あとは給食で飢えをしのいでました」  そんな貧乏な日々のなか、時折、すき焼きが食卓にのぼったという。父親が酔って大暴れした翌日、母親が子供たちを気遣ってすき焼きを作ってくれたのだ。 「具は挽き肉とネギ、キャベツだけでした。それを醤油と砂糖で煮込む。もちろん、生卵につけて食べるなんて贅沢はない。でも肉はご馳走だし、残り汁をご飯にぶっかけて食べるのがおいしかった! 親父に殴られても、『明日はすき焼きかも』と思うと、我慢できたんです」  家族で笑いながらつつく「挽き肉のすき焼き」に、貧しくとも「母親の愛情」を感じていたという。 「中学になってグレかけたことがあったんです。でも、母親のおかげで踏ん張れたんだろうなって思いますね。母親の優しさがなかったら、どっかで堕ちていました。苦しいとき、思い出すんです。あのクソ親父に殴られる苦しさ、怒り、憎しみ。でも、その次の日は、大好きなすき焼きが出る。『明日はいい日になる』って。母親はそういうことを俺に教えたかったんだろうな、と。だからカネもないのに、無理してすき焼きを作ってくれたんだろうって」
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本当のすき焼きよりも思い出のすき焼き
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