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過激な下ネタも人形ならセーフに見える!? 人形研究者が語る映画『パペット大騒査線 追憶の紫影』

――さて、そんなコニーですが、かつて拳銃で撃たれたせいでパペットの臓器が移植されていて、“人間でもパペットでもない自分”という存在に揺れ動く……という場面がありますが。
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オスカーとラジー賞で同時ノミネートという快挙(?)を成し遂げたメリッサ・マッカーシー。オスカーでは惜しくも受賞を逃したが、ラジー賞では見事に本作で最低主演女優を獲得した

菊地:その設定にはグッときましたね。というのも、私の人形研究活動の出発点は、18世紀の英国で活躍した喜劇作家・俳優のサミュエル・フットという人で、晩年、左足が義足だったんです。 彼は、等身大の木の人形と、義足の自分が共演する作品を書いて、オチの裁判場面で「人形は人間の法律では裁けないので釈放。だがフットは一見人間だが、足は人形と同じ素材なので人間とも人形ともいえない。なので逮捕も釈放もできません!」と宣言するんですよ。 ――ほ、ほう……。 菊地:今のあなたみたいに、この場面は当時の観客を困惑させました。実はこれ、現代の我々が置かれている身体論とも通じるめちゃくちゃ面白い話なんですが……まあこれ以上知りたい方は、拙著『人形メディア学講義』(河出書房新社)をお読みください(笑)。 ――そのフットに通じるものを、本作のコニーにも感じた、と? 菊地:コニーはパペットの臓器を移植されたことで、“人間と人形の境界をまたいでしまった者”になった。だからこそ、パペットの連続殺害事件を担当し、パペットのフィルとバディを組めるわけです。でも、後半になるにつれてこの設定があまり生かされなくなってしまうのは、ちょっと残念でしたね。 例えばですが、彼女の中の“人形”の部分がフィルの死とかによって覚醒し、見た目や能力においても人間と人形の境界を超えたら、個人的にはもっと嬉しかったかもしれません(笑)。

人間と人形の関係があぶり出す人種差別問題

——“人間と人形とのバディもの”といえば『テッド』が有名ですが、下品で不謹慎なギャグが多かったり、人種差別が暗喩されていたりする点も共通しています。人間と人形が共存するフィクションだからこそ描けること、というのはあるのでしょうか? 菊地:バディものって、最初は対照的な2人が反発していて、そこから互いの違いを受け入れ合ってバディになっていくのがセオリーじゃないですか。人間と人形のバディものは、私たちが《他者》とどういう関係を構築できるかを、構造的/視覚的にわかりやすく描けるのだと思います。 本作では、“身体の一部が人形”というコニーの設定も多少手伝って、まったくの他者であり、なおかつ世間から差別的な扱いを受けてきたパペットたちと、自分との違い/共通点はなんだろう? と考えるためのきっかけになっている。そこは秀逸だなと思いますね。
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人間とパペットが共存する世界を舞台にすることで、他者との共生を描いているのだ

——『テッド』でも、そういうテーマが描かれているんですか? 菊地:『テッド2』は、テッドが自分を誰かの所有物ではなく人間であることを認めさせるために裁判を起こすというストーリーで、これはかつて“黒人奴隷は所有物か人間か”を争った実際の裁判を基にしています。下品で不謹慎に見えて、実はすごく社会派な作品なんです。 つまり、一見ふざけた外見のパペットたちの振る舞いや扱いを通じて、自分たちの世界や社会について考える作品になっている。『テッド』も『パペット大騒査線〜』も、そこが大事な共通点であり、面白いところだと思います。 ――あの、ひょっとして『テッド』にも……。 菊地:もちろん、SEXシーンはありますよ!(笑)  過激で下品で不謹慎、だけどちょっぴり深い気もする『パペット大騒査線 追憶の紫影』。本作は果たして『セサミストリート』への冒涜か、それとも遠大なるリスペクトなのか。人はなぜ人形劇でSEXシーンを撮りたがるのか。すべての答えは、劇場で確認してみてほしい。 取材・文/福田フクスケ © 2018 STX PRODUCTIONS, LLC. All Rights Reserved.
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『パペット大騒査線 追憶の紫影(パープル・シャドー)』
監督/ブライアン・ヘンソン
出演/メリッサ・マッカーシーほか
配給/パルコ
渋谷シネクイントほか全国上映中

『人形メディア学講義』著者:菊地 浩平
出版社:河出書房新社(茉莉花社)
価格:2700円
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