エンタメ

<純烈物語>退路を断ち三十代半ばで決めたムード歌謡への道。小田井涼平は物事を結果論で考える<第20回>

<第20回>答えも出ていないうちはやめられない。小田井涼平は物事を結果論で考える

「何を言われても切り口によっては、何もかもが事実……今までもそうやってきたんで。真実ではないことも僕らは真実としてやってきたから、自分たちが“それ”に合わせるのが、純烈に関してはいいんですよ。その方が、こういう方向でいこうと統一できるし」  白川裕二郎同様、小田井涼平にもまず振ったのは、酒井一圭のアナウンスメントに関する受け取り方だった。この言葉の冒頭には「僕は物事を結果論で考えるんで」のひとことが添えられていた。それは、話を聞く中で何度となく出てきたワードだった。  長年ともにやってきた中で、それらの一つひとつに関し「あれって、じっさいのところどうだったのよ?」などと確認するようなこともなく、結果的に紅白へつながったんだからこれでよかったんだという発想。純烈は、その積み重ねによって知らず知らずのうちに成功への階段を昇っていたのだという。  小田井のもとへ純烈構想が持ってこられた段階では、酒井の名前は出されておらず、はじめに企画ありきだった。この時点で「曲を作って歌番組にも出て、紅白にも選ばれて……」と、絵に描いたような大風呂敷が広げられていた。  常識的に考えたらうさん臭い話に構えるものだが、歌の世界についてまったく知らなかった小田井は「そういうものなんか」程度にしか考えなかった。一方では「そんな簡単にいけるものなんかなぁ?」という疑問符も貼りつけてはいたが。 「こういう予定で進んでいるんでと言われたから、そういうことですかぐらいの感覚でした。そもそもやってみて、水が合わなければやめたらいいぐらいの姿勢だったので、そこまで深くは考えていなかったんです。深く考えたら、やってませんよ。だから、具体的に何年後にはこういうことをやってこうなっているみたいな自分の中での将来設計もまったく思い浮かばなくて。どうして自分に声をかけたのか、その理由さえも聞かなかった」  当時、小田井がやっていた役者の仕事も似たようなものだった。あるレベルまでいった者を除けば、明日はどうなるかわからぬような小劇団が多勢を占めている。  大きな制作会社がついていない限りはみな手弁当でやっていて、これをやりたいといったところからまずはスタートし、そこから次第に肉づけされていく。だからこの話も同じようなものなんだとの感覚だった。  その上で小田井は、純烈のメンバーとしてやることを一度は断っている。酒井と会う前の時点で「今やっている役者の仕事をすべてキャンセルし、これからも舞台は入れないでください」と言われたからだ。  三十代半ばで仕事をゼロにするのは、あまりにリスクが大きかった。もう一つのネックは、自分自身が歌を生業としていくことに対する不安。  その時点で、歌声さえも聴かせていないのだから、歌唱力で引っ張られたわけではないはず。ムード歌謡というなら、バックで「ワーワワワー」とコーラスをやっていればいいのか。
次のページ right-delta
ムード歌謡での自らの仕事は「ワ職人」か
1
2
3
おすすめ記事