紅白はもちろん、デビューできるできない以前のレベル
「ムード歌謡自体は一本の柱としてドンと合ったんだと思います。でも、僕らの歌唱力がそれにともなっていなかった。そうなると、だったらもっとポップス寄りの方が合っているんじゃないの?という意見も出てくる。そこでの迷走ですよね。もしも僕らの方から『やってみたけどムード歌謡は無理でした』と提示したら、本当にそこで変わっていたでしょう。それほどスタートは流動的でした。
紅白はもちろん、もうデビューできるできない以前の話なんですよ。じゃあ、俺たちはハメられた!ってなったかというと、僕はそうは思わなかった。何が自分たちに合っているか探っているような状態のものが、世の中に出ていくはずがないことを薄々わかっていたから。方向性も決まっていないようなバンドをレコード会社がデビューさせるわけがないやないですか」
この時、小田井が心がけたのは自分から酒井に「これ、話が違うけどどうなってんの?」と確認しないことだった。イチから十まで説明するタイプではなかったから、他のメンバーの目が届かぬところで試行錯誤しているのは、なんとなくわかっていた。
一番年上の自分が指摘することで、周りが不安になる。それが嫌だったのだ。むしろ、メンバー間から出た声を諭す役割だった。
「確かに、最初に聞いた話と比べるとおかしいよな。でも、今はやるしかないんちゃうか? だって、まだなんにも結果出てへんで。俺らみたいなのがデビューできたら世の中、みんなデビューできてるわ」
純烈に目立った動きがないまま、月日は過ぎていった。1年半ほどが経った頃、小田井は役者の仕事も再開する。未練があったからではなく、止まっている状態が辛かったのだ。
芸能界にいる人間として、舞台もなければ歌の仕事も入らない。それは生活とは別の次元で死活問題だった。事務所と相談し、純烈とは重ならぬ期間限定ならばと了承を得て、知り合いに頼まれた範ちゅうで活動する。
それによって、何もやらずとも家賃を支払う程度の給料をもらっていたことに対する事務所へのお返しも多少なりはできた。もちろん、自分の中でここまでと線引きをしていたから、そのまま役者に戻ろうとも思わなかった。
「これも結果論なんですけど、紅白へ出るために必要なことだったんですよね、切り捨てることが。そこで中途半端に役者の仕事もやっている自分を残していたら出られなかったのかもしれない。結論的にそう言うしかないですもんね。純烈というものを進めて、自分で決めて動いているんだから、何かしら結果を出さんとやめられへんよなって。結局、いつも自分の中でそれが勝つんです。
とにかくなんでもいいから……極論、紅白じゃなくてもいいから、自分自身でやり切ったなと思えるところまでやらないとあかんと思っていた。だから、もしも紅白に出ていなかったら、自分の中で何かしらのゴールを決めて、そこに向けてやっていたとは思いますね。ゴールのテープを切るまではやめられない……そこだけは、ブレていないんです」
撮影/ヤナガワゴーッ!
(すずきけん)――’66年、東京都葛飾区亀有出身。’88年9月~’09年9月までアルバイト時代から数え21年間、ベースボール・マガジン社に在籍し『週刊プロレス』編集次長及び同誌携帯サイト『週刊プロレスmobile』編集長を務める。退社後はフリー編集ライターとしてプロレスに限らず音楽、演劇、映画などで執筆。50団体以上のプロレス中継の実況・解説をする。酒井一圭とはマッスルのテレビ中継解説を務めたことから知り合い、マッスル休止後も出演舞台のレビューを執筆。今回のマッスル再開時にもコラムを寄稿している。
Twitter@yaroutxt、
facebook「Kensuzukitxt」 blog「KEN筆.txt」。著書『
白と黒とハッピー~純烈物語』が発売