更新日:2023年05月23日 16:55
エンタメ

40代でブレイク、“お笑い第7世代”永野ד純烈”小田井涼平の諦めない人生とは?

 40代といえば、人生の折り返し地点。だが、諦めずに努力を続けた結果、成功を手にする者たちもいる。そこで40代で見事ブレイクを果たした歌謡コーラスグループ「純烈」の小田井涼平、ピン芸人・永野の対談を企画。何が彼らを成功へと導いたのか、その理由を語ってもらった。
まだ成長できる人

「ピン芸人」永野×「純烈」小田井涼平

40代ブレイク対談:成長し続けた男たちの本音

――まず、お二人とも長い下積みを経験していると思いますが、そこでの苦労はありましたか? 小田井:30歳のとき、『仮面ライダー龍騎』で俳優デビューできたんですが、この作品に出演していたライダーが13人もいてブレイクには繋がらなかったですね。あと、36歳で「純烈」を結成してもデビューまで2年かかってます。そもそも歌をやったことのないド素人集団でしたし、所属レコード会社が決まるはずもありません。 永野:イケメンだけにちょっといかがわしいですよね。勘ぐって信用できない。俺も怪しいけど(笑)。 小田井:僕らはメンバーそれぞれ役者時代のファンがいたからライブの観客が1人、2人みたいなことは経験していないんですよ。そんなぬるま湯に浸かっていたから売れるまでの下積み生活が長くなったのかなとは思いますね。 永野:ぬるま湯という意味では同じかも。僕は地下芸人の第7世代出身って勝手に名乗ってますが、お金にはならないながら、スゴいと評価してくる人がいたんです。そこで甘やかされてきたもんだからやめ時がわからなくなっちゃった。いつしかライブが後輩だらけで何をしても笑ってくれるっていう状況で、これはさすがにヤバいと気づき、中野小劇場でお笑いライブをやめると宣言をしたんです。それが意識の変化に繋がったのか、だんだんテレビに出られるようになって。ちょうど40歳の節目の時の出来事で、漠然とこのままじゃまずいと思ってました。 小田井:「純烈」は演歌・歌謡曲でテレビ出演は難しく、「何でもやろう!」とメンバーと話してもそもそも仕事自体がなかった。歌唱力は信頼されてないし、それでもキャバレーで歌わせてもらうようになったんです。ある日、テリー伊藤さんが店に来て面白がって番組で使ってもらえたけど、当時は告知できる仕事もなかった。そんなある時、僕らの密着コーナーがテレビで放映され、番組を見て「呼んでみよう」と声をかけてくれた人がいたんです。全国のスーパー銭湯や健康センターを回るようになったのはそれがきっかけなんです。 永野:僕はてっきり最初から道が決まってて、キャバレーでやってたって話もストーリー作りなのかと思ってましたよ。 小田井:僕らは当時、イケメンムード歌謡コーラスグループって売ってたんですが、キャバレーに来るのは男性じゃないですか。僕らが行くとホステスさんがこっちを見ちゃうからお客さんは嫌がる。実際、歌い終わった後にイチャモンつけられたこともあったけど、仕事がないので揉めるわけにもいかず土下座もしたし、割り箸に5000円札を挟んだものを投げつけられたこともありました。  でも、男性客を相手にする限りは同じことがまた起きる可能性がありますよね。だけど、オネエキャラならかわせるんじゃないかと思い、キャラ変してみたんです。ただ、健康センターの男湯で変な目で見られるようになって……。扱いづらいのかやっと出られたテレビでも立ち位置を端っこにされてほとんど映れませんでした。 永野:でも、オネエキャラはちょっと親近感が持てました。実は、僕も「永野おしり」っていう似たようなキャラで芸をしていた時期があって、まさか共通点があったなんて(笑)。ちなみにそれ以外にも五木ひろしさんのモノマネをしてた「四木ひろし」に改名したり、売れたいとの一心でリズムネタをやっていた時期もありましたね。
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目標や目的は後づけでも構わない
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白と黒とハッピー~純烈物語

純烈が成功した戦略と理由がここに
「夢は紅白!親孝行!」を掲げ、長い下積み時代を送ってきた純烈がいかに芸能界にしがみつき、闘ってきたのかを、リーダー酒井のプロレス活動時代から親交のあるライター鈴木健.txtが綴ったノンフィクション


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