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昭和の大スターのピンチを救った一言とは?

いまの仕事楽しい?……ビジネスだけで成功しても不満が残る。自己啓発を延々と学ぶだけでは現実が変わらない。自分も満足して他人にも喜ばれる仕事をつくる「魂が燃えるメモ」とは何か? そのヒントをつづる連載第157回 映画 石原裕次郎という俳優がいます。映画『太陽の季節』『狂った果実』『嵐を呼ぶ男』や、テレビドラマ『太陽にほえろ!』『西部警察』などで活躍した昭和の大スターです。  石原裕次郎は閉鎖的な日本の映画業界に対して、「自分たちで映画を作れないか?」と考え、昭和38年に石原プロモーションを設立しました。そして、その4年後の昭和42年に、三船敏郎が設立した三船プロダクションと共同で、映画『黒部の太陽』の制作発表を行いました。  ところが制作発表直後から、『黒部の太陽』に対して圧力がかかります。当時の映画業界には監督や俳優の引き抜きを禁止した取り決め『五社協定』がありました。この時、石原裕次郎は日活専属、三船敏郎は東宝専属でした。「石原プロ」と「三船プロ」が共同製作した企画に二人が出演すれば、五社協定に違反することになります。  この五社協定違反を盾にして、日活の社長だった堀久作は『黒部の太陽』に猛反対しました。五社協定に参加している松竹、東宝、大映、東映、日活が配給しなければ、映画館で公開されることはありません。『黒部の太陽』は制作発表直後に頓挫寸前になったのです。  石原裕次郎は自著『口伝 我が人生の辞』(主婦と生活社)でその時のことについて、「さすがに頭を抱えた」と記しています。そんな彼を救ったのは、映画製作に協力的だった関西電力の重役の一言でした。 「フィルムは、映画館じゃなくても上映できるんだろう?」  この一言で石原裕次郎は「映画館じゃなくても、体育館でも公会堂でも、どこでも上映できる」と考え、「よし、とにかく作ってみよう」と開き直ることができました。彼はこのアドバイスについて、「僕はこの人の一言で決心した」と記しています。そして製作発表の翌年、『黒部の太陽』は無事公開され、当時の日本映画史上最高の観客動員数を記録しました。  石原裕次郎のこの体験には、誰にでも有効なヒントが含まれています。それは「決心は人物でするもの」というヒントです。人間は自分で自分を切り替えることができません。人間が変わる時は、必ず誰かに影響を受けています。  ところが私たちは「こっちの方がうまくいきそうだから」といった具合に、利益や効率や成功の見込みを判断材料にしがちです。しかし、こうした判断材料による選択では、「うまくいくまで続ける」という粘り強さを発揮できず、「やっぱりこっちの方がいいかもしれない」とすぐに目移りしてしまいます。それでは「決心」とは呼べません。
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順風満帆なチャレンジなんてない
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