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「救済法案」成立に見る、岸田総理の覚悟<著述家・菅野完>

―[月刊日本]―

腹を括った岸田総理

統一教会

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 岸田総理がどうもおかしい。  仕事をしているのである。これを異常事態と言わずしてなんと言おう。  中でも目を見張ったのは、統一教会の悪辣な献金被害をうけた被害者を救済すべく立法されたいわゆる「救済法案」(正式名称=「法人等による寄附の不当な勧誘の防止等に関する法律」)の審議だ。  この法案の担当大臣は河野太郎。しかし衆目の一致するとおり、河野太郎には多数の利害を調整し落とし所を見つけていくという繊細な作業をやりおおせる能力はない。彼はどちらかと言えば「怒鳴ったり威圧したり、その一方で誉めそやしたりして人を操縦して言うことを聞かせる」ことをマネジメントと心得るタイプ。本来的に管理能力がない。ましてや本法案のように難しい調整の必要な作業など到底無理だ。  おそらく岸田総理はそれを見越していたのだろう。「救済法案」の審議では自ら進んで国会審議の前面に立ち、与野党双方からの質疑に応じた。「検討使」という不名誉なあだ名を冠せられた優柔不断な岸田文雄の面影はどこにもない。むしろ「救済法案」審議の岸田総理の姿は、逃がすべきを逃し守るべきを守るため、自らの体を晒し押し寄せる敵にたった一人で対峙する、長板橋の張飛や衣川の弁慶のような英雄豪傑のそれであった。  とりわけ驚いたのは12月6日の衆院消費者特別委員会での審議だ。質問に立った共産党・宮本徹議員の質問は、法理論として堅牢であり、さらには統一教会が巻き起こす被害実態に即しており、正論中の正論とも言うべき内容だった。総理も着座のままながら宮本議員に正対し、満腔で傾聴の意を表している。深く頷く様など、まるで総理が宮本議員に同意しているかのようでさえある。  しかし答弁に立った岸田総理は、開口一番、想定外の発言をする。 「これは政治ですから」  こんなあからさまな総理答弁は聞いたことがない。つまり総理は、宮本議員の主張を聞くだけは聞き、その内容を(おそらくは)是としながらも「法案を国会会期中に成立させる」という政治目標を優先するのだと、誤解の余地のない言語で明確に宣言したのだ。  たしかに岸田総理が今回採用した「難しい法案審議を、総理の人間力で乗り切る」という手法は、安倍晋三や菅義偉の常套手段だった。だが、安倍と菅には、胆力はあっても教養がなく、運動神経はあっても知性がないため、答弁はことごとく破綻していた。森友事件当時、安倍が発した「私の妻や私が関与していれば議員も総理大臣も辞める」答弁などその最たるもの。教養も知性もないのに胆力だけで国会を乗り切ろうとしたがために、政府部内は大混乱し、最終的には公文書改竄という未曾有の犯罪に発展し、果ては職員の自殺にまで至っている。  しかし岸田文雄は違う。胆力と人間力を武器に法案可決ただ一点を目指して手荒く乗り切っても、おのずと答弁は、行政の体面と法秩序の枠の中に綺麗に収まっている。知性や教養というものはこういう時にこそ光るものなのだろう。  この総理の手腕で、関係各省庁の官僚各位は、ずいぶん仕事がしやすかったに違いない。わずか4日間の審議期間しかなかったにもかかわらず、野党側からの修正案がほぼそのまま丸呑みされたのも、附帯決議の文面が素直に反映されるようになったのも、総理が「これは政治だ」の一言で、あらゆる責任を引き受けたからに他ならない。岸田文雄は、総理としての仕事・総理にしかできぬ仕事を見事にやりぬいたのだ。

近年稀に見る充実した国会審議

 かくて「救済法案」は成立した。  確かにこの法は、被害当事者や支援弁護士各位のご指摘どおり、被害者全てを救済しうるものではない。被害の未然防止の観点からも不十分なところがあるのは確かだろう。さらには、今回成立した「救済法」では、宗教二世の被害は全く対象とされていないし、寄付行為以外の財産収奪への手当ては全くなされていないという問題もある。また、法案審議の時間があまりにも短すぎたのも事実だ。本来であれば会期を延長するなり、あるいは閉会中審査に回しあと1ヶ月もすれば始まる通常国会で継続審議とするなど、たっぷりと審議時間を確保するべきだったのも事実だ。  しかし一方で、この法案を今年の臨時国会で成立させることは、政治的、いや、倫理的に至上命題であったことも事実だろう。今年7月8日の不幸な事件を契機に、我々の社会は、統一教会のひきおこす陰惨な被害について再び認知するに至った。その社会的認知がありながら、その事件の直後に開催された臨時国会で、なんら立法措置を講じないというのであれば、それはそれで、被害者に対して酷薄というものだ。  この矛盾を解消しうるのは、まさに岸田総理が言うように「政治」そのものをおいて他にない。今回の法案審議が、近年にはめずらしく白熱かつ充実したものになったのは、与野党の立場、そして法案への賛否をこえて「もはやこれは、政治が判断しなければならない事案である」との共通認識が、議場に溢れていたからに他ならない。  もちろんこの覚悟を共有しなかった若干の例外はある。「この法案では過去の被害者は救えない」ことを理由に、法案に反対したれいわ新選組や、言葉尻だけをとらえて、パフォーマンスに興じた国民民主の玉木雄一郎代表などがその事例だ。れいわ新選組の反対理由、すなわち「この法案では過去の被害者は救えない」が、あまりにも愚劣な意見であることは論を俟たないだろう。「救済法」には刑事罰が設定されている。その法律に遡及効果を認めることは、法治主義の根幹である罪刑法定主義を踏み外してしまうではないか。中学の「公民」の授業で習うような基本的な概念さえ理解できないのならば、バッジなど外して暴力革命なりなんなり志向すればよい。  こうした若干の愚劣な例外を除き、先にも触れたように「救済法案」の審議は近年稀に見る充実した国会審議となった。  法案に反対の姿勢を終始崩さなかった共産党も、法案の不十分さを認識しながら賛成に転じた立憲民主・社民・維新の各党も、与党として閣法には必然的に賛成せざるを得ない自民・公明の両党も、みな「これは政治の責任である」との覚悟を共有し、真剣に対応した。わずか4日間の審議ではあったが、審議が進むにつれ「数十年にわたる政治の不作為の責任を引き受ける」の一言が、与野党や賛否の垣根をこえて議場の共通標語になっていった様は、壮観でさえあった。
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「政治家の覚悟」のみがなしうる仕事
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月刊日本2023年1月号

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