徳川綱吉はただの“犬バカ”ではなかった。「生類憐みの令」が発布された本当の理由
近年、歴史が見直されてきており、「学校で習った歴史と事実は違うのでは」ということがある。例えば、聖徳太子の実在に疑問符がつけられたり、鎌倉幕府の成立した年が1192年ではなく1185年と改められてきている。もしかすると、将来そうなるかもしれない例を1つ紹介しよう。徳川5代将軍・綱吉である。
多くの読者が綱吉と聞けば、真っ先に犬公方(お犬様)を連想し、生類憐みの令を思い浮かべるのではないだろうか。この法令は殺生を禁止するために1687年に発布されたのだが、それは「行き過ぎた動物保護法であり、そのために庶民は大変に苦労した」という認識が一般的だろう。綱吉は“犬バカ”将軍のイメージが広まっている。
実際、映画『大奥 ~永遠~[右衛門佐・綱吉篇]』(男女逆転の時代劇。菅野美穂が綱吉を演じ、共演した堺雅人と結婚するきっかけとなった作品)の公式サイトで徳川綱吉についての説明を確認すると、『悪法・生類憐みの令を布いた犬公方としても有名』とある。
しかし、作家で評論家でもある岬龍一郎氏は近著『日本人のDNAを創った20人』(育鵬社)で、こう語っている。
「この“生類憐みの令”が発布された理由にはその時代背景も考慮する必要がある。当時はまだ戦国の気風が色濃く残っていた時代で、加えて病人や牛馬などを山野に捨てたり、旅先の宿で旅人が病気になると病人を追い出したり、見捨てたりするといったことが普通に行われていたのである」
こういった当時の人々の悪習に対し、綱吉は大変憐れんだのだそうだ。そこで綱吉は生類憐みの令によって人間を捨てることを禁じ、貧しさのために犬や牛を飼育できなくなった者達には、役人に届け出るようにと通達したのだという。
しかし、当時の人々は困惑し、法の目をかいくぐる人間が後をたたず、なかなか浸透しなかったのだそうだ。結局、生類憐みの令は6代将軍・家宣の代に撤廃されたのだが、この後も幕府は老人や捨て子の禁止といった人間に対する法令はそのまま継続したという。さらに、意味もなく動物や人を殺めることは悪であるという思想も継続して人心に残っていったのだそうだ。岬氏はこう続ける。
「もしも、綱吉によって生類憐みの令が出されなければ、その後も姥捨て山や捨て子の悪習は改善されることはなかっただろうし、命あるものを慈しむといった精神は生まれなかった。そして、この精神は時代を経て現代の日本人の根底にも流れており、他国の国々の人と比べ、優しい民族であることにたどり着く」
実は綱吉は、今日の日本人の心に道徳を植えつけた為政者だったというのが史実だそうだ。
また、あまり語られることはないが、綱吉の治世はそもそも“英邁な将軍”と高い評価を得ていたという。しかし、生類憐みの令が大きな一因となり、今日の悪名高き将軍へと評価を落としていったのだそうだ。
「綱吉はただの犬公方ではない。自身が悪役を買って出ることで、民心が儒教的思想へと自然と流れることを知っていた」(岬氏)
もしかしたら近い将来、日本人の綱吉像が“犬バカ”から“名君”に大逆転する日がくるかもしれない。 <取材・文/吉留哲也>
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