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PROFILE

森巣博
森巣博
1948年日本生まれ。雑誌編集者を経て、70年代よりロンドンのカジノでゲーム賭博を生業とする。自称「兼業作家」。『無境界の人』『越境者たち』『非国民』『二度と戻らぬ』『賭けるゆえに我あり』など、著書多数。

第5章:竜太、ふたたび(38)

 一般に「ガッタオ」を求める際には、バカラの打ち手は丁寧な絞り方をしない。

 縦ラインにカードを五分の一ほど、気合いとともに一気に折り曲げるのである。

 そう。

 竜太が信じるように、博奕は気合いだった。

 念のためにもう一度、

「ガッタオッ」

 1万ドル分の大音声とともに、竜太はモーピンのカードを一気に折り曲げた。

 他に打ち手の居ないVIPフロアに、竜太の叫び声がこだまする。

 んっ?

 おかしい。

 そこにあるはずのスーツのマークの頭が、出てこなかった。

 ん、ん、んっんっんっ!

 このカードには、印刷ミスでもあったのか? 

 印刷ミスじゃなければ、竜太が絞っているカードは、エースだった。最悪のカードとなる。

 そ、そ、そんなバカな。

 5プラス1で持ち点が6となるので、規則上プレイヤー側に3枚目のカードは配られない。

 プライヤー6、バンカー7で、クー(=手)が確定した。

 俗にバーベキュード・ポーク「叉焼(チャーシュー)」という状態だ。この呼び方は、広東語での語呂合わせからきている。

 プレイヤー側はバーベキューにされた豚となり、バンカー側の勝利である。

 起こってはならないことが、起こった。

 たとえそれが博奕(ばくち)の本質だったとしても・・・。

 竜太はがっくりと首を折り、プレイヤー側二枚のカードを、ディーラーに投げ返す。

「バンカー・ウインズ、セヴン・オーヴァー・シックス」

 他に打ち手の居ないVIPフロアに、ディーラーの無情な声が響く。

 プレイヤー側のベット枠から、10頭のゴリラが持ち去られた。

 俺の1万ドル、俺の1万ドル。

 竜太の掌が、ゴリラのスタックに伸びた。

 今度は、20頭のベットである。取れば前手で逃げ出したゴリラが、もう1万ドルの嫁さんを連れて戻ってきてくれる。

 サイドは?

 ここは自分で選んだ。

 なぜなら、前クーは、勝手に動いた掌が、間違ったベット枠を選択してしまったのだから。

 心の中で、

 俺のカネ、返せええええっ、

 と叫びながら、竜太は20頭のゴリラをプレイヤー枠に押し出した。

 スタックでは背が高すぎて、叩き付けるわけにはいかなかったのだ。

「ノー・モア・ベッツ」

 とのディーラーの声で、竜太は我に返った。

 これが、「プロスペクト理論」で指摘された罠ではなかったか。

「ウエイタ・ミニット」

 ディーラーの腕が左右に振られたあとでは、もう間に合わない。

 慌てて竜太は掌でディーラーの動作を停止させた。

 俺は、まだ勝っている。それも自分としては、大勝の部に入る勝利である。

 それを忘れちゃ、いかんのだ。

 ここで、身の丈に合わない2万ドル(=180万円)のベットなんて、盛大な自爆行為ではなかろうか。

 竜太に理性が戻ってきた。

 新宿歌舞伎町のアングラ・カジノのドブネズミばくち打ちがもつ理性なんて、たかが知れたものだったかもしれないけれど。

⇒続きはこちら 第5章:竜太、ふたたび(39)

第5章:竜太、ふたたび(37)

 竜太の指示に従い、ディーラーが開いたバンカー側のカードは、リャンピンの5にモーピンの2がひっついて、持ち点7。

 竜太の背筋に、一瞬冷たいものが駆け抜けていった。

 刺さったモーピンにテンがついていれば、バンカー側はナチュラル・エイトで、プレイヤー側に三枚目のカードの権利が消えるところである。それゆえ、ほぼ即死が予想された展開だ。

 あぶね、あぶね。

 崖っぷちから逃れたといえども、バンカー側の7の持ち点は強力だった。そりゃそうである。8か9でしか、7を叩けないのだから。

 でも竜太には自信があった。

 自分が選んだサイドが勝つのではなくて、自分が張ったサイドが勝利するはずなのだから。

 それに、バカラ卓には、

「セブン、ネヴァー・ウインズ(7では決して勝てない)」

 という言い回しがあった。

 敵に三枚目のカード、つまりセカンド・チャンスを与えると、回し蹴りが飛んでくることが多いのである。

 呼吸を整え、竜太はディーラーが流してきたプレイヤー側のカードを、あらん限りの力を籠め絞りはじめた。

 一枚目は、横ラインに2点の翳が現れリャンピン(=4か5のカード)だとわかる。

 そこでいったん掌を止め、リャンピンのカードの正体を最後まで確認せぬまま、二枚目のカードに移った。これは、多くのバカラ賭人がやる方法である。

 なぜだかは、知らん。そもそも、既に配られたカードを、わざわざ全力で絞るのだ。なぜか、という問いに正しい解などあろうはずがなかった。

 欲しいのは、もう一枚のリャンピンのカード。あるいはモーピン(横ラインになにも現れない、1か2か3のカード)で、しかも刺さったやつ。

 リャンコ・リャンピン(=二枚のリャンピン)なら、一方が「抜け」てさえいれば、8か9の持ち点で確定する。

 モーピンなら総ヅケで、負けはない。

 神を信じず仏に縋(すが)らず、しかし竜太は祈った。祈るのは、人間の特権なのである。

 頼む、リャンピン。

 竜太が全力を籠めて絞る二枚目のカードの横ラインに、翳は姿を見せなかった。

 とするなら、セカンド・ベストのモーピンの方だ。

 脚がついても、セイピン(=横4列で、9か10のカード)やサンピン(横3列で、6か7か8のカード)なら、プレイヤー側に三枚目のカードは配られるのだが、展開がきわめて厳しくなってしまう。したがってこの局面では、モーピンのカードがセカンド・ベストとなった。

 リャンピンにモーピン。バンカー側とピンの組み合わせでは同様の展開だ。

 敵は、5プラス2。

 上等だ、コノヤロ。

 肺に酸素を補充すると、竜太は1枚目のリャンピンのカードに戻った。

 つけよ、ついているんだぞ。

 テンガアァ~ッ、テンガアァ、テンガァ、テンッ!

 心の中で絶叫しながら、渾身の力を指先に籠めて、竜太はカードを絞った。

 カードの中央部に翳を求めて、ただひたすらに絞る。

 1ミリの数分の一ずつ。

 本当にスローに。

 中央部にかすかな翳が現れた。

 ザマアミロ。

 リャンピンでも5のカードである。ヨーソーロー。

 竜太は仕上げのために、モーピンのカードに移った。

 再び、呼吸を整えてから、胸をいっぱいの酸素で充満させる。

「ガッタオッ!!」

 刺され、という意味の広東語だった。

 モーピンが刺さって(=縦ライン真ん中にすぐに翳が現れる状態を意味する)さえいれば、それは2か3のカードだ。

「ガッタオ」なら、もう負けはない。

 5プラス2で、7のタイ。5プラス3で、ナチュラル・エイトの勝利。

⇒続きはこちら 第5章:竜太、ふたたび(38)

第5章:竜太、ふたたび(36)

「座蒲団(ざぶとん)」獲得のためには、バナナ(=5000ドル・チップ)2本のベットで、100回勝たなければならないのである。

 ゴリラ(=1000ドル・チップ)での張り取りじゃ、ゴールまで遠すぎた。

 行ってみるか?

 竜太は迷った。

 行ってみよう。

 眦(まなじり)を決する。

 竜太の席前にバナナはなかったので、ゴリラ(=1000ドル・チップ)10頭を掴み上げる。

 いま行こうとしていたところに、フロートのフィル・インが入った。

 出鼻を挫かれた。

 でも、当たり前と言えば当たり前のことである。

 なぜなら、フロートの中にあった1000ドル・チップのほとんどは、竜太の席前に所有権を移行していたのだから。

 天井にはめ込まれた“アイズ・イン・ザ・スカイ”を通し監視している者から、ケイジに連絡がいき、ゴリラが新たに補充された。

 フロートのフィル・インは、いろいろと規定の細かい手続きを踏まねばならないので、時間が掛かる。

 ゴリラ・ベットの連勝で煮崩れていた竜太の頭が、その間すこし冷えた。

 賭場(どば)で「熱くなる」という現象は、むずかしいところなのである。

 熱くなったら、負ける。

 同時に、熱くならないと、大勝は望めない。醒めた人間に、ホットロールは決して訪れてくれないからだ。

 それはそうだろう。

 年収の半分、あるいは年収そのものほどのカネを、一手に賭けるのだ。それを仕留めていくから、大勝となるのである。

 醒めていたら、とてもできる行為ではあるまい。

 カジノの建物を一歩でも外に出たら、100万円って大金だ。

 竜太は、冷えかけた頭を天火の中に入れ直す。がんがんと過熱した。

 こりゃあ、行くぞおおおおう。

 眼に見えぬ敵に怒鳴った。

 竜太の理解では、博奕は気合いである。

 竜太の脳内にアドレナリンが充満する。

 漲(みなぎ)ってきた。

 この感覚が重要なのである。

 フィル・インが終わり、会計部員とセキュリティ部員が去ったバカラ卓に、竜太は眦を決し、ゴリラ10頭を叩きつけた。

 サイドは?

 まだ決めていなかった。ありゃ?

 でも、いいのである。

 プレイヤー側であろうと、バンカー側であろうと、竜太がチップを置いたサイドが勝つ。

 なぜか?

 これまでの数時間がそうだったのだから。

 プレイヤー枠とバンカー枠の中間地点に叩き付けられた10頭のゴリラを、ディーラーが不審げに眺めた。

 竜太はチップを手前に引いた。

 すなわちプレイヤー側の枠内に収めた。

 再び、なぜか?

 そんなこと、知らん。

 勝手に掌がそう動いただけなのである。

 ディーラーの若い男が、クロスさせていた両腕を左右に開いた。

「ノー・モア・ベッツ、プリーズ」

 もうあと戻りはできない。

 シュー・ボックスからカードが抜かれた。

 一枚目がプレイヤー、二枚目がバンカー、三枚目がプレイヤー、四枚目がバンカー。

 カードはそれぞれ二枚ずつに重ねられ、ディーラー前の所定の場所にひとまず置かれる。

 プレイヤー側のカードを席前に流そうとしたディーラーの動作を、竜太の甲高い声が遮った。

「バンカー、オープン」

 まずバンカー側の持ち点を示しやがれ、このヤロー。

 という意思表示である。

 なんでそう言ったのか、竜太にもわからない。

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第5章:竜太、ふたたび(35)

「じゃ、わたしはこれで」  男が言って、1万ドルと1000ドル・チップの山を、ディーラー側に押し出した。 「もう行かんのですか?」  と竜太。腹の方はすっきりしたが、心が晴れない。 「お腹いっぱいです。欲を掻くと、ロクな […]

第5章:竜太、ふたたび(34)

 なんであそこで、やめちゃったのか。  新参者があろうがなかろうが、あれはプレイヤー側にオール・インのケースだったのである。  プレイヤー側のベットで勝っているので、ハウスにコミッションは引かれない。3手で、男は2万90 […]

第5章:竜太、ふたたび(33)

「入っても構いませんか?」  席前に残ったチップを、全部プレイヤー枠に押し出そうとしていたその瞬間、竜太の背中に、声が掛かった。  それも日本語で。  ひたいからハゲあがった40代の男である。 「ええ、どうぞどうぞ」 「 […]

第5章:竜太、ふたたび(32)

 みゆきが去ったバカラ卓に、竜太は残った。  もう手持ちのカネは、3万AUD(270万円)ちょっとである。  真希からかっぱらってきた7万ドルは、いったいどこに消えたのか?  バカラ卓に張ってあるグリーンの羅紗 (ラシャ […]

第5章:竜太、ふたたび(31)

「また、飛び込み自殺なんてことはないよね」  とみゆき。 「こういう時、そういうことを言うんじゃない」  と竜太は叱る。 「なんで?」 「博奕(ばくち)ってのは、不安を抱くとその不安の方の結果が出るからだ」  そう、博奕 […]

第5章:竜太、ふたたび(30)

「一万ドルだけ貸してくれ」  竜太はみさきに依頼した。  上着の内ポケットには、まだ400枚前後の100ドル紙幣が残っている。  だから、卓上でそのままキャッシュをチップと交換してもいいようなものなのだが、竜太は「博奕( […]

第5章:竜太、ふたたび(29)

 みゆきの席前のグリーンの羅紗 (ラシャ)の上には、ピンク色のモンキー・チップのスタック(=20枚ひと山)が4本積まれてあった。  いや、それのみならず、ゴリラ(=1000ドル・チップ)十数頭やバナナ(=5000ドル・チ […]

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