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PROFILE

森巣博
森巣博
1948年日本生まれ。雑誌編集者を経て、70年代よりロンドンのカジノでゲーム賭博を生業とする。自称「兼業作家」。『無境界の人』『越境者たち』『非国民』『二度と戻らぬ』『賭けるゆえに我あり』など、著書多数。

第5章:竜太、ふたたび(28)

「わたしはもうちょっとつづけてみる」

 とみゆきが応えた。

 勝手にせい、と竜太は思う。

 失意と憤怒の濁流が、竜太の頭の中で渦巻く。

 真っ暗闇だ。

 このハウスにきてからわずかな時間で失ってしまった200枚強の100ドル紙幣だけが、なぜか頭の中の暗闇で舞っていた。

 キーは渡されていたホテルの部屋に入った。

 広さは80平米ほどか。

 部屋なんてどうでもよかった。ミニバーに直行する。

 ミニュチアのボトルだが、スコッチ2本、ブランデー2本、ラムとジンとウオトカが1本ずつ。

 ワインは中瓶だった。

 スピリッツ類のボトルがすべて空になり赤ワインのボトルを半分ほど殺したとき、竜太はソファにひっくり返る。

 そこで意識を失った。

 目覚めたときには、カーテンを開いたままの部屋の中に、陽光が降り注ぐ。

 頭の中で奇っ怪な音を立てる防犯ベルが鳴っていた。

 竜太の生涯、最悪の目覚めである。10代の少女を歌舞伎町のフーゾクに沈めた翌日より、悪い目覚めだった。

 頭がぎりぎりと万力の力で締め付けられる。

 ベッドにみゆきはいない。

 いや、そもそも誰かがベッドを使った形跡すらなかった。

 たぶん前夜にメイドによってターン・ダウンされた状態のまま、ベッドには皺一本ないシーツが広がっている。

 ということは?

 最悪の二日酔いの竜太の頭の中に、悪い予感がむくむくと湧いてきた。

 バスルームに駆け込み、竜太は嘔吐する。

 饐えた匂いの黄色い液体だけが便器を汚した。

 バスルームの鏡には、青ざめた顔のバカが映っている。

 なんで博奕(ばくち)で大負けしたあとには、鏡にバカが映るのか?

 それは、博奕で負ける奴はバカだから。大負けしたら大バカだからだった。

 みゆきのことは心配だが、ひとまずバスタブに湯を張る。

 熱めの湯に浸かってから、竜太はシャワー・ブースで冷水のシャワーを浴びた。

 リヴェンジ?

 いやいや、と竜太は頭を振った。

 いくらやっても傷口を広げてしまう日、というのが博奕には必ずあった。

 今日が、まさに「その日」なのである。

 戦う気力がまったく湧いてこなかった。

 そんなときにいくら足掻いても無駄なことは、竜太にもわかっている。

 真希からかっぱらってきたカネをずいぶんと失ってしまったが、取り戻そうとはせずに、最初の計画どおり、みゆきと一緒に西オーストラリア州に行こうか?

 そこで、大自然に癒される。

 放牧して、気力を取り戻す。

 かたき討ちは、それからである。

 食欲はまったくなかったが、なにかを胃の中に入れておいたほうがよさそうだ。

 竜太はカジノのVIPフロアへと向かった。

 竜太が抱いた「悪い予感」は、見事的中した。

 前日と同じテーブルの前日と同じ席に、髪を振り乱したみゆきが、まだ坐っている。

 そのとき、みゆきはモンキー・チップ(=500ドル)5枚をばしんとプレイヤー枠に叩きつけた。

 んっ、みゆきが2500ドルの勝負?

 やばい。追い詰められての「トビの高張り」なのか。

 シートのうしろから、竜太はみゆきの肩に掌を置いた。

「どうなんだ?」

「それが、いくらぐらい勝っているのか、もうわからない」。

 振り向いたみゆきが答えた。

 えっ?

 紅が落ちたみゆきの唇は、青黒い。

⇒続きはこちら 第5章:竜太、ふたたび(29)

第5章:竜太、ふたたび(27)

 オール・インの勝負だった。

 日本の非合法のカジノでは、これを「テッカ」と呼ぶ。

 多分「鉄火」という漢字を当てるのだろう。

 総額2万8000ドル分の「テッカ」だった。

「これが、『プロスペクト理論』が示す状況なのよね。負けているから取り戻そうとして、ドカンと行く」

 横に坐るみゆきが、つぶやいた。

 みゆきのこのつぶやきで、竜太の頭の中で煮えたぎっていた血液が、一瞬冷えた。

 自分がやっているのは、まさに「トビの高張り」の古典的ケースである、と竜太も認めざるを得ない。

 自分は、「トビの高張り」を喰う側の人間であって、それで喰われる側の人間ではなかったはずだ。

 血液が、頭から胸以下に下がってくる。

 もしそんなものがあると大胆な仮定をするなら、「新宿歌舞伎町のロクデナシばくち打ちの矜持 (きょうじ)」なるものが、竜太に戻ってきた。

 バンカーを示す白枠内に一度叩きつけたチップを、あわてて席前に回収する。

 もう、恥も外聞もなかった。

 重要なのは、勝負卓上に載るカネだけなのである。

 それ以外の「博奕場の真実」は、ロクデナシばくち打ちには存在しない。

 そう、ここはじっと我慢をする局面だった。

 打たれて打たれる。打たれつづけて、打たれ越す。

 打たれるのに「テッカ」はない。

 ミニマム・ベットで充分だった。

 竜太は300ドルのベットに戻した。

「そうよね、それが竜太くん。応援してあげるから」

 みゆきがモンキー・チップ(=500ドル)のバンカー・ベットでフォローする。

「ゴー・アヘッド」

 みゆきがディーラーに命じて、カードが配られた。

「俺はいらんよ」

 フェイス・ダウン(=裏になった状態)のカード二枚はみゆきに流せ、と竜太がディーラーに掌で合図する。

 1万ドルのベットで叩かれた直後に、300ドル・ベットのカードを絞る気は起こらないはずだった。

「わたしが?」

 とみゆき。

「でも、やる」

 みゆきも「バカラの絞り」の魔力に嵌まりだしたのか。

 地獄行きの高速道路に乗った。

 あまり力を込めてカードを絞っているようには見えなかったが、

「あれ、ナチュラル・ナインじゃない」

 とみゆき。

 エースとサンピンという「最強太郎」の組み合わせで、みゆきはサンピンのカードに中央に点をひっつけ、負けはなくなった。

 ディーラーが起こすプレイヤー側のカードは、9以外ならなんでもよろしい。

 楽勝だった。

 クー(=手)に勝利したにもかかわらず、竜太の心はさらに落ち込む。

 そりゃそうだ。

 1万ドルを失って、285ドルを得た。(バンカー側の勝利には、5%が差し引かれた勝ち金がつけられる。これが「バンカー・コミッション」、つまりハウスの「かすり」である)

 バカバカしくて、話にならん。

 しかも、みゆきのつぶやきで改悛する前には、竜太は2万8000ドルの「鉄火」を仕掛けようとしていたのではなかったか。

 もういけない。

 これ以上やっても、傷口を広げるだけなのだろう。

「もう、寝る」

 竜太は言うと、席を立った。

⇒続きはこちら 第5章:竜太、ふたたび(28)

第5章:竜太、ふたたび(26)

 さて、サンピンでも、スペード・三つ葉・ハートのカードであれば、「花が向く(あるいは、花が咲く)」と呼ばれる方向がある。ダイヤにはこれがない。

 これは、それぞれのスート(マークの種類のこと)が示す形状によって、そうなってしまう。

 二点が向いている方向(=花が咲いた方向)が「アタマ」であり、一点しか向いていない方向が「ケツ」である。

 なぜダイヤのカードにはこれがないのか? トランプのカードを自分の前に並べてみて、納得していただきたい。

 この局面で、サンピンのカードを「アタマ」から絞るのか、それとも「ケツ」の方から絞るのか?

 打ち手によって、そのやり方は異なるはずだ。

 勢いをもった打ち手が、勝利を一気に決めに行くときには、「ケツ」から行く。

「ケツ」の中央下部にマークが現れたら、そのカードは8だからである。

 一方、「負けないこと」を確定したければ(それは同時に一発で「負けてしまったこと」の確定ともなりうる)、「アタマ」の方から、すなわち「花が咲く」方向から絞る。

 そこにマークが現れれば、そのカードは7か8となるのだから。(そしてマークが現れなかったら、そのカードは6であり、瞬殺される)

 一般化はできないのだろう。

 しかしこの局面なら、心の中に恐怖を抱いた打ち手たちは、サンピンのカードを「アタマ」から絞るケースの方が多いのかもしれない。

 竜太は「アタマ」から絞り起こしている。

 自信がなかったのか。

「テンガア~、テンガア、テンガァ、テンッ!」

 息を詰めている竜太は、心の中で絶叫しつづけた。

 カードの中央に翳が現れろ。点がつけ。

 あらん限りの力を指先に籠め、1ミリの数分の一ずつカードを起こしてゆく。

 ゆっくりと。本当にスローに。

 天国への道を切り拓く。地獄への穴ぼこが現れる。

 これがバカラの「シボリ」の真骨頂だ。

 しかしカードの中央部に、なかなかマークが出てこない。

 翳が見えてこないのである。

 ん、ん、んっ?

 カードの先端が、ぶるぶると大きく震えていた。

 これは竜太の掌の震えが伝達したゆえではない。極端な力がカードに加えられていたからだった。

「テンガア~、テンガア、テンガァ、テン」

 まだ出ない。まだ現れない。

 カードを三分の一ほどを絞り込んでも、中央部になにも見えてこなかった。

 駄目だ。スカ。

 息が上がったが、そういう問題じゃなかった。

 しかし、竜太は悟る。

 竜太が全身全霊を籠めて起こしていたこのサンピンのカードは、左右三点中央無点の6のカードである、と。

 広東語の語呂合わせでいわゆる「チャッシュー(=叉焼)」と呼ばれる状態、すなわち、プレイヤー側7、バンカー側6での敗北だった。

 竜太はがっくりと首を折る。

 脱力した竜太が、バンカー側のカードをディーラーに戻した。

「プレイヤー・ウインズ。セヴン・オーヴァー・シックス」

 ディーラーが読み上げ、1000ドル・チップ10枚がフロートに回収されていった。

 ああ、俺の1万ドル、俺の1万ドル。

 嘆いても、もう手遅れだ。

 すでに竜太の席前に積まれた大小さまざまなチップの合計は、3万ドルを割っていた。

 なんでここで「チャーシュー」なんじゃい。

 竜太の頭に、大量の血が昇る。そこで血液が煮えたぎった。

「俺のカネ、返せえええっ!」

 と叫びながら、バンカーを示す白枠内に、竜太は席前に残ったチップのすべてを叩きつけた。

⇒続きはこちら 第5章:竜太、ふたたび(27)

第5章:竜太、ふたたび(25)

 竜太はここで、バンカー側二枚目のカードの絞りの掌を停める。  まあ、バカラを打ち慣れた人なら、ここでは絞りの掌を停める局面だろう。  理由は、バンカー側のカードが、絵札プラスサンピン(=横ラインに3点のマークが認められ […]

第5章:竜太、ふたたび(24)

 ほとんどの打ち手は、この「ゲーム賭博の基本原則」が守れない。  勝っているときには手が縮こまり、一方負けているときには、取り戻そうとして、ベット額を上げていく。  そうやって、傷口を広げる。  回復が望めない状態にまで […]

第5章:竜太、ふたたび(23)

「ウエイト・ア・モーメント」  みゆきがディーラーに告げて、ゲームの進行を中断させた。  VIPフロアでは、これができるからありがたい。 「ウォルター・ミシェルという心理学者の実験があったの」  みゆきが説明する。  二 […]

第5章:竜太、ふたたび(22)

「ツラにはツラ返し」  竜太はつぶやきながら、手を止めた。  Pの4目(もく)ツラが切れたのだから、Bに落ちるのか。  本当に「ツラ返し」となればそうなのだろうが、そんなこと、わかりゃせん。  アルコールで痺れた竜太でも […]

第5章:竜太、ふたたび(21)

 さすがに初手は、300ドルのミニマム・ベット(その卓で許された最小の賭金)。  カードは竜太が絞り、これがナチュラル8でプレイヤー側の楽勝だった。  次の手も、またその次の手も、またまたその次の手も、3枚引きとはならず […]

第5章:竜太、ふたたび(20)

 泡ワインが2本、空になってテーブルの上に載っている。  いくらタダメシ・タダ酒だからといって、竜太は飲み過ぎた。  1500ドル(13万5000円)・ベットを連続して外した衝撃が残っていたのだろう。 「これ、美味しいね […]

第5章:竜太、ふたたび(19)

 ジュリアという名札をつけた美女ホストに、VIPフロアに導かれた。  外ではまだ陽が落ちていない。  バカラ卓は3台だけオープンしていた。  ミニマムはそれぞれ100ドル、300ドル、500ドルと、打ちやすい設定である。 […]

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