ばくち打ち
第5章:竜太、ふたたび(18)
なんというか、画に描いたような「飛び込み自殺」だった。
浮き賭金(だま)オールインのチップが発火して、竜太は一瞬で熱くなる。
次手も1500ドルをプレイヤー側を示す白枠内に叩き付けた。
「俺のカネ、返せええっ!」
前手で失ったのは、「浮き賭金」であるのだから、じつは他人様(ひとさま)のおカネなのだが、打ち手の心理としては、どうしてもそうとは思えないのである。
俺のカネ。俺のカネ。
それを奪いやがって。
そのクー(=手)も6対7の俗にいう「チャーシュー」で、あっさりバンカー側の勝利だった。
二手で27万円相当の損失。
新宿歌舞伎町のロクデナシばくち打ちにとって、起こってはならないことである。
そもそもそれまで歌舞伎町のアングラ・カジノで一手に1500ドル(13万5000円)なんて賭けたことがなかった。それなのに、連続してやられてしまった。
竜太の頭は、煮崩れた。
次のクーは、3000ドルのベットか。
一挙に取り戻す。
そのとき竜太の気合いを外すように、みゆきが席前に積まれた40枚の黒チップと8枚のピンクチップを、ディーラーに向かって押し出した。
「カラー・アップ、プリーズ」
「カラー・チェンジ」という言葉を竜太は教えた覚えがあるのだが、「カラー・アップ」なんて言葉を教えた覚えはなかった。
だいたい竜太にとっても、初めて聞く言葉である。
みゆきはクラウン・カジノのバカラ卓で、学習していた。それも、しっかりと。
教える者と教えられる者の立場が、そのうちに逆転してしまうのかもしれない。
「こっちは『ゴリラ』よね。でもこっちは、なんて呼ぶの?」
ディーラーから戻された5000ドル・チップ1枚と1000ドル・チップ3枚のうち、白色の5000ドル・チップを指して、みゆきが訊いた。
「それは、『バナナ』」
真希からの受け売りかもしれないが、そこいらの知識では、まだ竜太の方が上である。
「『インサイド』に行くとしても、わたしはまずこれを換金してくる」
とみゆき。
「そんな必要はない。VIPフロアでも、キャッシュ・チップは同じもののはずだ」
「いいの。元資の5000ドルはキャッシュとしてハンドバッグにしまい込んで、浮いている3000ドル分で『インサイド』では打つつもりなんだから」
しっかりしている。
しかしこの会話があったおかげで、竜太の煮崩れた頭がすこし冷えた。
そう、3000ドルといえば、大金なのである。
吉野家の牛丼なら675杯喰えた。
一日2杯喰ったとしても、ほぼ1年間、竜太はひもじい想いをしなくてすむのだ。
そして吉野家の牛丼の価格が頭の中に浮かんでしまったら、もう竜太は3000ドルのベットなど、行けなかった。
怖い。
そして懼(おそ)れを抱きつつ打つ博奕は、まず負けてしまうのである。
第5章:竜太、ふたたび(17)
ブロンドの長髪で、瞳は深いブルー。
痩せているのに、ベージュのブラウスの胸の部分が、きゅんと尖っていた。
まるで漫画に出てきそうな白人美女なのだが、紅がちょっと強めにひかれた唇は、竜太に悪魔のそれを連想させた。
首からID入りのプラスティックをぶら下げていたので、ハウス側の人間か。
美女が竜太になにかを話しかけた。
新宿歌舞伎町のろくでなしばくち打ちは、自慢じゃないけど英語などまるでわからない。いや、日本語だって怪しいものだ。
歌舞伎町語で話しやがれ。
「カードはもっているか、と訊いている」
と、みゆきが助け舟を出した。
この間、ディーラーは3人を眺めているだけで、勝負は中断している。
「VIPルームじゃあるまいし、ヒラ場で博奕(ばくち)を打つのに、そんなもの必要なのか?」
と、竜太は質問を質問で返した。
みゆきと美女の間で、会話が交わされる。
みゆきの英語はたどたどしかったが、どうやら意思は疎通しているようだ。
田舎の女子大を舐めてはいけない、と竜太は思った。
「インサイドでプレイしないか、ですって。また『インサイド』よ。間違いなくVIPフロアのことね。プレイしたかったらすぐにカードを発行するから、IDが必要なそうよ。どうする?」
二人の張り取りは、サヴェ―ランスのカメラ(=通称“アイズ・イン・ザ・スカイ”)で追われていたのだ。
そこからVIP部に連絡が入り、ホストが駆けつけた。
その間、わずか20分。
早業(はやわざ)である。
大口の打ち手しかVIPカードをもてない、と考えている人たちも多いのだが、そんなことはない。
メガ・カジノのヒラ場(=一般フロア)で、一手500ドル(4万5000円)・1000ドル(9万円)くらいで打っていれば、すぐにVIPホストが駆けつけてくる。
「その『インサイド』とやらのミニマムはいくらなんだ」
「100ドルのもあるそうで、この卓と変わらないんですって。『インサイド』では、飲み物・食べ物すべてフリーで、ホテルの部屋も用意する、って言ってた。話が美味しすぎるんじゃない」
みゆきは知らないだろうが、竜太はたった2時間弱だったかもしれないが、すでにカジノのVIPルームを経験していた。
そう、飲み物・喰い物全部無料で、王侯貴族の気分で博奕(ばくち)が打てる空間だった。
もちろん、美味しい餌には喰らいつく。
新宿歌舞伎町にたむろすろくでなしばくち打ちの習性だった。
釣り上げられるからいけないのである。
餌だけ頂戴して、頭陀(ずだ)る。
「じゃ、ガジってみるか」
「ガジるって?」
「アングラ・カジノの言葉だな。ハウスにただメシ・ただ酒をご馳走になって、おみやげに仲間とキャチボールでサビチ(=サーヴィス・チップのこと)を抜いて持ち帰る」
「言っていることがわからない」
「わからなくてもいいさ。ただしこの公認ハウスではサビチがつかないだろうから、せいぜいVIPルームで飲み食いしようや」
VIPカードが届くのを待つあいだ、ディーラーによって11クーめのカードが開かれた。
プレイヤー側が7。上等な持ち点だ。
しかしバンカー側は三枚目で持ち点8となるカードを起こし、1500ドルはやはり「飛び込み自殺」となってしまった。
竜太は、がっくりと首を折る。
第5章:竜太、ふたたび(16)
みゆきのモンキー(=500ドル・チップのこと)ベットでの快進撃が始まった。
6目(もく)めも7目めも8目めも、プレイヤー側の楽勝である。
シューの開始から、いきなりのL字ヅラ。
「L字ヅラ」というのは、ケーセン(=出目の記録)が下に突き当たり右に折れた状態を指す。英アルファベットの大文字「L」に見立てて、そう呼ばれる。
竜太は、もう悔やむこと悔やむこと。
頭の中を、後悔の濁流が荒れ狂っていた。
しかし誰を恨むでもない。怖気づいた自分が悪かったのである。
「バカラって、面白いね」
とみゆき。
それはそうであろう。
一手ごとに500AUD(4万5000円)の収入があるのだ。
しかもディーラーがカードを開いていくミニバック(小バカラ)の卓だから、やたらと展開が速い。
このバカラ卓に坐ってから、まだ20分も経っていなかっただろう。
10目のPヅラになったとき、みゆきの席前には8枚のモンキー・チップが鎮座していた。8匹のモンキーの横には、40頭のタイガーが手つかずで置いてある。
「このツラ、ぜんぜん切れないね。プレイヤー側の持ち点は高くないのに、バンカー側が自滅する。どこまで行くんだろう」
とみゆきのつぶやき。
「あるんだよな。15目、20目の大ヅラって」
できない我慢をするのが博奕(ばくち)なのだが、もう竜太には我慢ができなかった。
たとえ「飛び込み自殺」になろうとも、飛び込むしかない。
だいたい教師役である自分が、生徒にバカにされているような気分だった。
「行くぞ。浮き玉オールインだ」
竜太は気合いをこめて言うと、15枚のブラック・チップをプレイヤー枠に叩きつけた。
「なんだか、いやな予感がする」
とみゆき。
それはないだろう。
連れが勝負を仕掛けた手では、たとえそう思っても、言ってはいけない。
なぜなら、言われた方が不安を抱いてしまうからだった。
案の定、竜太の胸中に不安が生まれる。
でも、もうベットを引くわけにはいかなかった。
竜太は教師である。みゆきは生徒。
「わたしはお休み」
そう言うと、みゆきがサル1匹をボックスから引き揚げた。
「性格悪いなあ。応援ベットくらいしろよ」
とは、竜太のつぶやき。
「500ドルって、大金だもの」
とみゆき。
竜太の胸の中で、不安はもくもくと育っていった。
心臓は、どんどこどんどこ。
みゆきと同様に、竜太の頭蓋内部に「いやな予感」が広がった。
や、や、やばい。
その時、誰かが軽く竜太の背中を叩いた。
自殺かどうかは不明ながら、竜太はすでに「飛び込み」を図っていた。
尻がシートから浮き上がるほど驚く。
「なんだ、なんだよ」
振り向くと、20代の金髪美女が微笑んでいた。
第5章:竜太、ふたたび(15)
「竜太さんが行かないのなら、わたしは行きます。ランには乗れ、ツラには張れ。ギャンブルって、そういうことなんでしょ」 みゆきは、カラー・チェンジされたピンクのチップを、ぴしりっとプレイヤー側を示す枠内に叩きつけた。 「初 […]
第5章:竜太、ふたたび(14)
躊躇(ちゅうちょ)したら、引く。 新宿歌舞伎町の裏賭博で、竜太がずっと用いてきた戦法である。 確信をもった手でも、負けてしまう。 負ける予感がした手なら、まず負ける。 なぜだかはわからない。しかし賭博では、「良 […]
第5章:竜太、ふたたび(13)
ゲーミング・フロアをざっと眺めまわしてみれば、70テーブルといったところか。 「ホームページには90卓と書いてあったから、また別のフロアがあるのかもしれない」 とみゆきが言う。 「なにをやる?」 竜太は訊いた。 「 […]
第5章:竜太、ふたたび(12)
「ここから海沿いに600キロほど西に向かうと、南オーストラリア州の州都でアデレードというのがあって、そこにはカジノがある。一都市一カジノの法規制だそうよ。寄ってみない」 とみゆきが言った。 クラウン・カジノで勝利して […]
第5章:竜太、ふたたび(11)
第5章:竜太、ふたたび(11) 痩せているみゆきの乳房は、竜太が想像していたとおり小さかった。 肋骨の浮いた胸に、打撲でちょっと腫れあがったくらいの盛り上がりがあるだけだ。 その盛り上がりの中心部に、直系3センチく […]
第5章:竜太、ふたたび(10)
なるほど、金持ちたちは、こういうホテルに泊まるのか。 居間と簡単なキッチンつきで、バルコニーの部分を含まなくても、80平方米はある部屋だった。 「すんごい」 みゆきが驚きの声を挙げる。 この日の朝まで、セント・キ […]
第5章:竜太、ふたたび(9)
「フリーウエイの速度制限は、110キロよ。10キロ・オーヴァーまではセーフだそうだから、120キロ以上は出さないで」 すこし怯えた声で、みゆきが言った。 「ロジャー」 竜太は応える。 この片側3車線、時として4車線 […]