ばくち打ち
第5章:竜太、ふたたび(8)
その日の分のホステル代もなかった。
着の身着のままなのだから、荷物もない。
レセプションにロッカーの鍵を返せば、それがチェックアウトだった。
前日と同じマクドナルドに寄って、ビッグマックを買う。
ピアの南北に広がる海洋公園のベンチで、それを喰った。
もう、ビッグマック8個分の現金しか残っていなかった。
驚くぐらい端正に整備された海洋公園のベンチの上で、着の身着のままのホームレスが餓え死にか?
そんな状景すら、頭に浮かんだ。
発見者は驚くはずだ。
なにしろ、上着の内ポケットに「現金と同じもの」である3万ドル分のカジノ・チップを入れたまま、東洋人が餓死しているのだから。
こいつはバカか?
そう思われても仕方ないのだろう。
竜太の頭の中を、悪い妄想が渦巻く。
いやいや、そんなことになるはずがなかった。
必ず360枚の100ドル紙幣を持って、みゆきは戻ってくる。
いまの竜太には、そう信じるしかない。
* * * *
2日後には、レンタカーのハンドルを握っていた。
借りたのはみゆきの国際ライセンスでだったが、竜太は日本の免許証しか持っていない。ネット情報によれば、オーストラリアではそれでもなんとかなるらしい。
「どっち、行く?」
助手席に坐るみゆきに、竜太は訊いた。
カネはある。時間も腐るほどあった。
これが自由というものなのだろう。
竜太は自分の幸運に感謝する。
なに、幸運だって実力の内なのである。
「まずインド洋を見に行かない?」
助手席に坐ったみゆきが答えた。
メルボルンから西オーストラリア州の最西端まで、3500キロは車を走らせようという提案である。
竜太に異存はなかった。
西オーストラリア州がどこにあるのかも竜太には不明だったが、それでも構わない。
オーストラリアの道路標示は、わかりやすかった。
というか日本の都市部の道路標示が、道路標示の役目を果たしていないだけなのか。
表示にしたがって、右折や左折を5度ほどおこなえば、もうそこはM1のフリーウエイだ。
M1は、オーストラリアの海沿いをぐるっと回って全長1万4500キロもある、世界一長いハイウエイ・システムだそうだ。
「ここ、ずっと行けば、南オーストラリア州に出る」
携帯でマップを見ながら、みゆきが言った。
「途中で、グレート・オーシャン・ロードっていう、世界的に有名な景勝地を通るはずよ」
竜太はトヨタ・ランドクルーザー・プラドGXLのアクセルを踏み込んだ。
4000cc6気筒は気持ちよく加速する。
こんなバカでかい4輪駆動を借りたのは、いわゆる「レッド・センター」と呼ばれるアウトバックにも行く可能性を考えたからだ。
食料と水、そして十分な燃料さえ積み込めば、どこにでも、行ける。いつでも、行ける。
それが、自由というものだ。
ほんの2日前には、自分が餓死するかもしれない、と恐れていたのも忘れ、新宿歌舞伎町のゴキブリばくち打ちは意気軒昂だった。
片側2車線か3車線のうえに、日本のハイウエイに比べれば交通量もなきに等しい。
気づかぬうちに、速度計の針は150キロを超えていた。
「ちょっと、やばいよ」
みゆきが言った。
第5章:竜太、ふたたび(7)
「パスポートはカジノに入場する際に必要だ。ただし日本の運転免許証と携帯電話を預からせてもらうよ」
申し訳なさそうに、竜太は言った。
「なんで?」
とみゆき。
「パスポートは、カジノ入場の際の年齢確認のために必要となる」
「でもオーストラリアのカジノは、18歳からOKなんでしょ?」
「日本人は若く見られる。30歳くらいまでは、入り口でセキュリティにパスポートの提示を求められることが多いらしい。それに4万ドル分の
『現金と同じもの』を、俺はみゆきさんに預ける。なんかしらの保険を持ってなけりゃ、俺も不安だ」
「わたしは信用されていないのね」
「そういうわけじゃないのだけれど、わかるだろ?」
竜太は4枚の1万ドル・チップをみゆきに渡した。
「おもちゃみたい」
手のひらに載った1万ドル・チップ4枚を眺め、みゆきがつぶやいた。
強化プラスティックとクレイでできた1万ドル・チップは、まさしく「おもちゃ」そのものなのだが、その一枚ずつが100ドル札100枚、日本円にすれば90万円の価値をもっているのである。
まったく不思議な「おもちゃ」だった。
「おもちゃ」であるから、どんどんと行ける。
「マホガニー・ルーム」では、1万ドル・チップをてんこ盛りで張る打ち手もいた。
現金だったら怖くなって、とてもああは張れないだろう。
まさに、「カジノ・チップを考え出した奴は悪魔である」と竜太は思う。
「よろしく」
と竜太は言った。
これも、賭けである。
4万ドル・360万円なら、俺は運転免許証とケータイを見捨てて逃げるだろう。
そんなのは現地の警察に盗難届を出して、日本で再申請・再購入をすればいいだけなのだから。
竜太がみゆきの実家に押し掛けても、知らぬ存ぜぬ、を通せばいい。うるさくなったら、地元警察に連絡すれば一件落着。
大学卒業を控えた21歳のフツーの女の子の言い分と、新宿歌舞伎町のヤサグレばくち打ちのそれを比べたら、警察がどちらの証言を信じるかは、言わずと知れたことだった。
でも、みゆきは持ち逃げしないだろう、と竜太は思う。
思うというより、そう信じるしかなかった。
「換金が終わったら、しょぼいホステルを引き払って、二人で豪遊だ」
4枚の1万ドル・チップを手のひらに載せ、緊張した表情のみゆきを、竜太は勇気づけた。
「大丈夫よね?」
「大丈夫だ」
「カジノの建物の外で、待っててくれるね」
不安げなみゆきが問う。
「カジノの建物の外にも、セキュリティの『眼』があるんだ。俺はここで待つ」
竜太は手を挙げて、タクシーを止めた。みゆきを押し込む。
「タクシー代は?」
多少の危険はあるかもしれないが、おそろしく率のいいバイトなのだ。そんなの自分で払え、と毒づきたかったが、竜太は50ドル札をみゆきの掌に握らせた。ここでみゆきにへそを曲げられたりでもしたら、万事休すである。
竜太のポケットに残るは、40数ドルだけ。
これじゃ、今晩のホステル代も出やしない。
真夏のメルボルンの熱気にうたれているのに、竜太の背筋を冷たいものが駆け抜けた。
きっとうまくいく。大丈夫だ、大丈夫だ。
そう自分に言い聞かせながら、竜太は走り去るタクシーを見送った。
第5章:竜太、ふたたび(6)
「そしてここは重要だ。去っていく立ち賭けの連中といっしょに、きみもテーブルから離れる。これなら自然だ。ベットしようと思っていたのに、『ツラ』が切れてタイミングを失い、他のテーブルを探す、という流れなのだから。すると、きみの掌の中には、『カラー・チェンジ』された9頭のゴリラと2匹のモンキーが残っている。これをキャッシャーに持ち込むんだ」
「なんでいちいちそんな面倒な手続きを踏まなくちゃいけないの。わたしはカジノのセキュリティからマークされているわけじゃない。フロアに入ったらすぐにキャッシャーに向かって、窓口に1万ドル・チップを7枚差し出せばいいようなものだけれど」
「それが、そう単純ではないのさ」
じつは正確な知識をもっていたわけではないのだが、竜太は真希から聞いていた、高額チップの換金の仕組みを説明する。
「オーストラリアのカジノでは1万ドルを超す換金は、国税当局への報告義務が生じるらしい。だから、1万ドル未満の換金にする。『カラー・チェンジ』された9頭のゴリラだけ、キャッシャーの窓口に差し出すこと。残った2匹のモンキーは、みゆきさんの取り分だ。それでゲーム卓で遊んでもいいし、『現金と同じもの』なのだから、また後日換金に来ても構わない」
「7日間かけて、7万ドルを換金するの? 一日で63万円のアルバイトだと思っていたけれど、やっぱりそんな美味しい話があるわけないか」
「いや、初日なら4万ドルに達しない金額なら、換金しても大丈夫だろう、と俺は思う」
「でも1万ドルを超した換金なら、国税に報告されちゃうのでしょ。国税に報告されるということは、当然わたしの個人情報もカジノ側が把握していなければならない。面倒くさい質問なんかされちゃうみたいね」
みゆきの顔に当惑が浮かぶ。
「異なるキャッシャーで、9000ドルずつを4箇所で換金するんだ。これならIDの提示は求められないはずだ」
「なるほど」
「ただし、やり過ぎると、“アイズ・イン・ザ・スカイ”という名の監視カメラで追われる。そうなるのは厄介だから、4万ドル未満当たりが安全圏だろう、と俺は踏んでる」
竜太にも正確な情報があったわけではない。
しかし、VIPフロアでないザラ場(=ヒラ場=一般フロア)ですら、一人5万ドルくらいの現金なら、フツーに飛び交うのが、オーストラリアの大規模カジノだ。
「翌日、同じ方法を使って、9000ドルの3回で2万7000ドルの換金。これならまず、サヴェイランスのカメラで追われなくて済む。1日63万円のバイトじゃなくなるけれど、1日30万超にはなるのだから、文句はないだろう」
みゆきはじばらく考えていた。
「それは文句をいったらバチが当たるだろうけれど、怪しい匂いはあるよね」
「別に犯罪を犯しているわけじゃないさ」
竜太がその7万ドルのチップをバカラ・テーブルから掠めてきたのはまるで犯罪だったが、経緯を知らないみゆきが、そのチップを換金することが、法に抵触しているはずがなかった。
「本来なら、俺のカネだ。俺がカジノのキャッシャーにもって行って現金化すればいい。ところがセキュリティのリストに載ってしまって、中に入れない。だから、他の人間が換金しに行くだけなのだから」
「わかった、やってみる」
「とにかく怯えないこと。これが重要だ。周囲を気にすると、疑惑を抱かれる。でも自信をもって行動してさえいれば、まず疑われないものなんだよ」
竜太が、新宿歌舞伎町生活で学んだ行動哲学である。
第5章:竜太、ふたたび(5)
「野郎、ホテルの金庫から俺の博奕(ばくち)のタネ銭も含め、キャッシュを洗いざらい持って逃げやがった。ポケットにあったカジノ・チップだけが残ったんだ。さてこのチップをどうやって現金化するか、思い悩んでいたところなんだよ」 […]
第5章:竜太、ふたたび(4)
倒れ込んだベッドの上で、そのまままどろんでしまったようだ。 竜太は空腹で目覚めた。 窓の外には、夕闇がせまっている。 機内では、クリュグとかいう名のシャンパンを浴びるほど飲み、夜食は片づけたが、朝食を摂っていなか […]
第5章:竜太、ふたたび(3)
セントキルダのピア(桟橋)の前で、古い型のホールデン6気筒のタクシーから竜太は降りた。 西はきらきらと輝く真夏の海、東には2階あるいは3階建ての煉瓦家屋と背の低いビルが混在する。オーストラリアとしては珍しく都市計画が […]
第5章:竜太、ふたたび(2)
避けられる危険は、避ける。 新宿歌舞伎町のばくち打ちには、一時なりとも忘れてはならない心得だった。 そうでもしなければ、命がいくつあっても足りない稼業なのである。 竜太は、カジノのザラ場(=一般フロア)でチップを […]
第5章:竜太、ふたたび(1)
席前に残ったチップをすべて上着のポケットに突っ込むと、竜太は逃げた。 クラウン・カジノのプレミアム・フロア「マホガニー・ルーム」を出ると、下りのエスカレーターも使わずに、階段を駆け下りた。 かっさらってきたチップの […]
番外編その4:『IR推進法案』成立で考えること(33)
若い人たちはご存じないかもしれないが、その昔パチンコの「景品買い」って、『風営(あるいは風適)法』に抵触する、として違法だった。 1990年代初頭まで、警察は「景品買い」をどこどこ検挙していたのである。 ところが1 […]
番外編その4:『IR推進法案』成立で考えること(32)
前述したように、警察が警備・危機管理の両面で「公認カジノ」とかかわるのは、日本の現状から考えれば仕方ない。 また、日本で認可される「公認カジノ」の事業者は、経営実績と信用を持つ外資が主導するものとなることも、ほぼ間違 […]