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PROFILE

森巣博
森巣博
1948年日本生まれ。雑誌編集者を経て、70年代よりロンドンのカジノでゲーム賭博を生業とする。自称「兼業作家」。『無境界の人』『越境者たち』『非国民』『二度と戻らぬ』『賭けるゆえに我あり』など、著書多数。

第5章:竜太、ふたたび(8)

 その日の分のホステル代もなかった。

 着の身着のままなのだから、荷物もない。

 レセプションにロッカーの鍵を返せば、それがチェックアウトだった。

 前日と同じマクドナルドに寄って、ビッグマックを買う。

 ピアの南北に広がる海洋公園のベンチで、それを喰った。

 もう、ビッグマック8個分の現金しか残っていなかった。

 驚くぐらい端正に整備された海洋公園のベンチの上で、着の身着のままのホームレスが餓え死にか?

 そんな状景すら、頭に浮かんだ。

 発見者は驚くはずだ。

 なにしろ、上着の内ポケットに「現金と同じもの」である3万ドル分のカジノ・チップを入れたまま、東洋人が餓死しているのだから。

 こいつはバカか?

 そう思われても仕方ないのだろう。

 竜太の頭の中を、悪い妄想が渦巻く。

 いやいや、そんなことになるはずがなかった。

 必ず360枚の100ドル紙幣を持って、みゆきは戻ってくる。

 いまの竜太には、そう信じるしかない。

    *        *       *        *

 2日後には、レンタカーのハンドルを握っていた。

 借りたのはみゆきの国際ライセンスでだったが、竜太は日本の免許証しか持っていない。ネット情報によれば、オーストラリアではそれでもなんとかなるらしい。

「どっち、行く?」

 助手席に坐るみゆきに、竜太は訊いた。

 カネはある。時間も腐るほどあった。

 これが自由というものなのだろう。

 竜太は自分の幸運に感謝する。

 なに、幸運だって実力の内なのである。

「まずインド洋を見に行かない?」

 助手席に坐ったみゆきが答えた。

 メルボルンから西オーストラリア州の最西端まで、3500キロは車を走らせようという提案である。

 竜太に異存はなかった。

 西オーストラリア州がどこにあるのかも竜太には不明だったが、それでも構わない。

 オーストラリアの道路標示は、わかりやすかった。

 というか日本の都市部の道路標示が、道路標示の役目を果たしていないだけなのか。

 表示にしたがって、右折や左折を5度ほどおこなえば、もうそこはM1のフリーウエイだ。

 M1は、オーストラリアの海沿いをぐるっと回って全長1万4500キロもある、世界一長いハイウエイ・システムだそうだ。

「ここ、ずっと行けば、南オーストラリア州に出る」

 携帯でマップを見ながら、みゆきが言った。

「途中で、グレート・オーシャン・ロードっていう、世界的に有名な景勝地を通るはずよ」

 竜太はトヨタ・ランドクルーザー・プラドGXLのアクセルを踏み込んだ。

 4000cc6気筒は気持ちよく加速する。

 こんなバカでかい4輪駆動を借りたのは、いわゆる「レッド・センター」と呼ばれるアウトバックにも行く可能性を考えたからだ。

 食料と水、そして十分な燃料さえ積み込めば、どこにでも、行ける。いつでも、行ける。

 それが、自由というものだ。

 ほんの2日前には、自分が餓死するかもしれない、と恐れていたのも忘れ、新宿歌舞伎町のゴキブリばくち打ちは意気軒昂だった。

 片側2車線か3車線のうえに、日本のハイウエイに比べれば交通量もなきに等しい。

 気づかぬうちに、速度計の針は150キロを超えていた。

「ちょっと、やばいよ」

 みゆきが言った。

⇒続きはこちら 第5章:竜太、ふたたび(9)

第5章:竜太、ふたたび(7)

「パスポートはカジノに入場する際に必要だ。ただし日本の運転免許証と携帯電話を預からせてもらうよ」

 申し訳なさそうに、竜太は言った。

「なんで?」

 とみゆき。

「パスポートは、カジノ入場の際の年齢確認のために必要となる」

「でもオーストラリアのカジノは、18歳からOKなんでしょ?」

「日本人は若く見られる。30歳くらいまでは、入り口でセキュリティにパスポートの提示を求められることが多いらしい。それに4万ドル分の
『現金と同じもの』を、俺はみゆきさんに預ける。なんかしらの保険を持ってなけりゃ、俺も不安だ」

「わたしは信用されていないのね」

「そういうわけじゃないのだけれど、わかるだろ?」

 竜太は4枚の1万ドル・チップをみゆきに渡した。

「おもちゃみたい」

 手のひらに載った1万ドル・チップ4枚を眺め、みゆきがつぶやいた。

 強化プラスティックとクレイでできた1万ドル・チップは、まさしく「おもちゃ」そのものなのだが、その一枚ずつが100ドル札100枚、日本円にすれば90万円の価値をもっているのである。

 まったく不思議な「おもちゃ」だった。

「おもちゃ」であるから、どんどんと行ける。

「マホガニー・ルーム」では、1万ドル・チップをてんこ盛りで張る打ち手もいた。

 現金だったら怖くなって、とてもああは張れないだろう。

 まさに、「カジノ・チップを考え出した奴は悪魔である」と竜太は思う。

「よろしく」

 と竜太は言った。

 これも、賭けである。

 4万ドル・360万円なら、俺は運転免許証とケータイを見捨てて逃げるだろう。

 そんなのは現地の警察に盗難届を出して、日本で再申請・再購入をすればいいだけなのだから。

 竜太がみゆきの実家に押し掛けても、知らぬ存ぜぬ、を通せばいい。うるさくなったら、地元警察に連絡すれば一件落着。

 大学卒業を控えた21歳のフツーの女の子の言い分と、新宿歌舞伎町のヤサグレばくち打ちのそれを比べたら、警察がどちらの証言を信じるかは、言わずと知れたことだった。

 でも、みゆきは持ち逃げしないだろう、と竜太は思う。

 思うというより、そう信じるしかなかった。

「換金が終わったら、しょぼいホステルを引き払って、二人で豪遊だ」

 4枚の1万ドル・チップを手のひらに載せ、緊張した表情のみゆきを、竜太は勇気づけた。

「大丈夫よね?」

「大丈夫だ」

「カジノの建物の外で、待っててくれるね」

 不安げなみゆきが問う。

「カジノの建物の外にも、セキュリティの『眼』があるんだ。俺はここで待つ」

 竜太は手を挙げて、タクシーを止めた。みゆきを押し込む。

「タクシー代は?」

 多少の危険はあるかもしれないが、おそろしく率のいいバイトなのだ。そんなの自分で払え、と毒づきたかったが、竜太は50ドル札をみゆきの掌に握らせた。ここでみゆきにへそを曲げられたりでもしたら、万事休すである。

 竜太のポケットに残るは、40数ドルだけ。

 これじゃ、今晩のホステル代も出やしない。

 真夏のメルボルンの熱気にうたれているのに、竜太の背筋を冷たいものが駆け抜けた。

 きっとうまくいく。大丈夫だ、大丈夫だ。

 そう自分に言い聞かせながら、竜太は走り去るタクシーを見送った。

⇒続きはこちら 第5章:竜太、ふたたび(8)

第5章:竜太、ふたたび(6)

「そしてここは重要だ。去っていく立ち賭けの連中といっしょに、きみもテーブルから離れる。これなら自然だ。ベットしようと思っていたのに、『ツラ』が切れてタイミングを失い、他のテーブルを探す、という流れなのだから。すると、きみの掌の中には、『カラー・チェンジ』された9頭のゴリラと2匹のモンキーが残っている。これをキャッシャーに持ち込むんだ」

「なんでいちいちそんな面倒な手続きを踏まなくちゃいけないの。わたしはカジノのセキュリティからマークされているわけじゃない。フロアに入ったらすぐにキャッシャーに向かって、窓口に1万ドル・チップを7枚差し出せばいいようなものだけれど」

「それが、そう単純ではないのさ」

 じつは正確な知識をもっていたわけではないのだが、竜太は真希から聞いていた、高額チップの換金の仕組みを説明する。

「オーストラリアのカジノでは1万ドルを超す換金は、国税当局への報告義務が生じるらしい。だから、1万ドル未満の換金にする。『カラー・チェンジ』された9頭のゴリラだけ、キャッシャーの窓口に差し出すこと。残った2匹のモンキーは、みゆきさんの取り分だ。それでゲーム卓で遊んでもいいし、『現金と同じもの』なのだから、また後日換金に来ても構わない」

「7日間かけて、7万ドルを換金するの? 一日で63万円のアルバイトだと思っていたけれど、やっぱりそんな美味しい話があるわけないか」

「いや、初日なら4万ドルに達しない金額なら、換金しても大丈夫だろう、と俺は思う」

「でも1万ドルを超した換金なら、国税に報告されちゃうのでしょ。国税に報告されるということは、当然わたしの個人情報もカジノ側が把握していなければならない。面倒くさい質問なんかされちゃうみたいね」

 みゆきの顔に当惑が浮かぶ。

「異なるキャッシャーで、9000ドルずつを4箇所で換金するんだ。これならIDの提示は求められないはずだ」

「なるほど」

「ただし、やり過ぎると、“アイズ・イン・ザ・スカイ”という名の監視カメラで追われる。そうなるのは厄介だから、4万ドル未満当たりが安全圏だろう、と俺は踏んでる」

 竜太にも正確な情報があったわけではない。

 しかし、VIPフロアでないザラ場(=ヒラ場=一般フロア)ですら、一人5万ドルくらいの現金なら、フツーに飛び交うのが、オーストラリアの大規模カジノだ。

「翌日、同じ方法を使って、9000ドルの3回で2万7000ドルの換金。これならまず、サヴェイランスのカメラで追われなくて済む。1日63万円のバイトじゃなくなるけれど、1日30万超にはなるのだから、文句はないだろう」

 みゆきはじばらく考えていた。

「それは文句をいったらバチが当たるだろうけれど、怪しい匂いはあるよね」

「別に犯罪を犯しているわけじゃないさ」

 竜太がその7万ドルのチップをバカラ・テーブルから掠めてきたのはまるで犯罪だったが、経緯を知らないみゆきが、そのチップを換金することが、法に抵触しているはずがなかった。

「本来なら、俺のカネだ。俺がカジノのキャッシャーにもって行って現金化すればいい。ところがセキュリティのリストに載ってしまって、中に入れない。だから、他の人間が換金しに行くだけなのだから」

「わかった、やってみる」

「とにかく怯えないこと。これが重要だ。周囲を気にすると、疑惑を抱かれる。でも自信をもって行動してさえいれば、まず疑われないものなんだよ」

 竜太が、新宿歌舞伎町生活で学んだ行動哲学である。

⇒続きはこちら 第5章:竜太、ふたたび(7)

第5章:竜太、ふたたび(5)

「野郎、ホテルの金庫から俺の博奕(ばくち)のタネ銭も含め、キャッシュを洗いざらい持って逃げやがった。ポケットにあったカジノ・チップだけが残ったんだ。さてこのチップをどうやって現金化するか、思い悩んでいたところなんだよ」 […]

第5章:竜太、ふたたび(4)

 倒れ込んだベッドの上で、そのまままどろんでしまったようだ。  竜太は空腹で目覚めた。  窓の外には、夕闇がせまっている。  機内では、クリュグとかいう名のシャンパンを浴びるほど飲み、夜食は片づけたが、朝食を摂っていなか […]

第5章:竜太、ふたたび(3)

 セントキルダのピア(桟橋)の前で、古い型のホールデン6気筒のタクシーから竜太は降りた。  西はきらきらと輝く真夏の海、東には2階あるいは3階建ての煉瓦家屋と背の低いビルが混在する。オーストラリアとしては珍しく都市計画が […]

第5章:竜太、ふたたび(2)

 避けられる危険は、避ける。  新宿歌舞伎町のばくち打ちには、一時なりとも忘れてはならない心得だった。  そうでもしなければ、命がいくつあっても足りない稼業なのである。  竜太は、カジノのザラ場(=一般フロア)でチップを […]

第5章:竜太、ふたたび(1)

 席前に残ったチップをすべて上着のポケットに突っ込むと、竜太は逃げた。  クラウン・カジノのプレミアム・フロア「マホガニー・ルーム」を出ると、下りのエスカレーターも使わずに、階段を駆け下りた。  かっさらってきたチップの […]

番外編その4:『IR推進法案』成立で考えること(33)

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番外編その4:『IR推進法案』成立で考えること(32)

 前述したように、警察が警備・危機管理の両面で「公認カジノ」とかかわるのは、日本の現状から考えれば仕方ない。  また、日本で認可される「公認カジノ」の事業者は、経営実績と信用を持つ外資が主導するものとなることも、ほぼ間違 […]

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