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1976年6月25日、アリ-猪木戦が行われた日のサンマルチノ――フミ斎藤のプロレス講座別冊 WWEヒストリー第16回

「フミ斎藤のプロレス講座別冊」月~金更新 WWEヒストリー第16回


 ブルーノ・サンマルチノは、首の故障が完治しないままシェイ・スタジアム(1976年6月25日)のリングに上がる決意をした。

シェイ・スタジアムのライブカードのメインイベントは、サンマルチノ対ハンセンの“因縁の対決”だった。(写真は米専門誌『レスラー』=1976年の表紙)

シェイ・スタジアムのライブカードのメインイベントは、サンマルチノ対ハンセンの“因縁の対決”だった。(写真は米専門誌『レスラー』=1976年の表紙)

「もし、このイベントが失敗したら、WWWFは倒産するだろう。キミと私が13年かかって築き上げてきた私たちのWWWFがね」

 ビンス・マクマホン・シニアはサンマルチノに“殺し文句”を突きつけた。モハメド・アリ対アントニオ猪木の“世紀の一戦”は、WWWFにとってとてつもなく大きなギャンブルだった。

 全米150都市の映画館、劇場、アリーナで衛星生中継によるクローズド・サーキット上映をおこなうための総製作費は、1日に150興行を同時にプロモートするのとほぼ同額と考えればわかりやすいだろう。WWWFは、アリ―猪木戦の放映権を全米の有力プロモーターに分配=配給していた。

 このイベントがおこなわれた1976年には、現在のようなインターネット上の動画配信やケーブル回線によるPPV(ペイ・パー・ビュー=契約式有料放映)のようなテクノロジーはまだ実用化されていなかった。

 日本から送られてくる衛星生中継の映像がいったんニューヨークで受信され、この映像が数秒間のディレーでアメリカじゅうにクローズド・サーキット回線で配信されるという原始的なシステムは、アメリカじゅうの興行プロモーターにも大きなリスクを背負わせた。

 “プロボクサー対プロレスラー”の異種格闘技戦に目の色を変えたのはどちらかといえば“プロレス畑”のプロモーターたちで、アメリカ国内のプロボクシング関係者はかなり早い段階でアリ―猪木戦の信ぴょう性に疑いを抱き、スポーツ・メディアもこのイベントを“茶番”と決めつけた。WWWFと近い関係にあったプロモーターたちは「アリ対サンマルチノにカードを変更できないのか」とビンス・シニアに迫った。

 WWWFにとっていちばん大きな問題は、ニューヨークでのライブ版の前売りチケットのセールスが予想をはるかに下回っていたことだった。結果的に、アメリカのボクシング・ファンはアリ―猪木戦にあまり興味を示さなかった。

 やはり、プロレスのイベントにはプロレスのファンが喜ぶカードを提供しなければならない。これはひとつの教訓、あるいは真理だった。シェイ・スタジアムを満員にできるとっておきのカードは、サンマルチノ対スタン・ハンセンの“完全決着戦”しかなかった。

 4月のマディソン・スクウェア・ガーデン定期戦(4月26日)で、サンマルチノはハンセンとの試合中に首を骨折した。序盤戦でなんらかのアクシデントが起きたことは、観客にもすぐに伝わった。それでもサンマルチノは闘いつづけ、15分過ぎにサンマルチノが額から流血したところで試合がストップされた。判定は、ハンセンのレフェリーストップ勝ちだった。

 サンマルチノは緊急入院のため戦列を離れ、ハンセンはサンマルチノのスケジュールをそのまま引き継ぎ、ガーデン5月定期戦(5月17日)のメインイベントには、ハンセン対イワン・プトスキーのシングルマッチがラインアップされた。

 ケイ椎損傷という大きなケガからわずか2カ月でリング復帰を果たしたサンマルチノは、3万2000人の大観衆(興行収益40万ドル)が集まったシェイ・スタジアムでハンセンを場外カウントアウトで下した。ビンス・シニアの“予言”どおり、WWWFを救ったのはサンマルチノだった。

 翌日のニューヨークの地元紙のスポーツ面には“観客はブルーノを観に来た”という見出しがつけられ、消化不良(当時のオーディエンスには理解不能?)の試合内容に終わったアリ―猪木戦はメディアの集中砲火を浴びた。

 しかし、ニューヨークのヒーローを演じつづけるには、サンマルチノの肉体はすでに限界に達していた。ビンス・シニアが“新しい主役”に抜てきしたのは、サンマルチノとはタイプ的にまったく正反対の“スーパースター”ビリー・グラハムだった。(つづく)

斎藤文彦

斎藤文彦

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文/斎藤文彦 イラスト/おはつ

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