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TVアニメ「くまみこ」はなぜ炎上したのか? 原作者も「あの発言は、酷いなあ」と苦言

アニメ最終話は「何が問題だったのか?」

 この展開は原作と同じだが、原作では仙台へ出発する当日に、まちが石を投げられる夢を見て恐ろしくなり仙台行きを拒否、そのまま甘やかされENDとなるため、実際に仙台には行かずに断念しており、まだまちの臆病さが微笑ましく思える終わりになっている。しかしアニメでは実際に都会に行き、これまでの成長を踏まえた上で挫折して帰ってくる構図になっており、原作と同じ甘やかされる描写であってもより重大で深刻な意味合いを感じさせる。 「くまみこ」のアニメ自体は、原作に忠実に作られており、まるで「漫画を絵コンテに使っているのでは?」というほどで、原作の持つ魅力が隅々まで表現されたアニメ作品だ。アニメオリジナル要素があるのは九話以降くらいで、それ故に最後の一、二話で担当脚本家が雲隠れする事態にも繋がってしまったのだ。  アニメ最終話の後味を悪くする大きな要因となった「被害妄想」の描写も、ある意味では原作に忠実に再現されている。「嫌味を言われる幻聴」はおつかいに行った際に既に見ていたし、「大勢に石を投げられる妄想」も原作に描かれている。しかしアニメ最終話ほどにまで執拗に繰り返されてはいないし、演出に難があったのは否めないだろう。  はたして何が問題だったのか? それは、単純に今作最大のウリであった「まちのかわいさが演出できていなかった」ためであり、これが今回ファンの間で大騒ぎになった最大の要因だろう。改めて最終回を見てみると、まちは終始落ち込んでいるか被害妄想で萎縮しているか、ともかくまちにあまり動きがないことに気が付くだろう。ストーリーに多少問題があっても視覚的に面白い話数になっていればここまで炎上することはなかっただろうし、最終回にインパクトに欠けてしまったのが一番大きな要因だったように思われる。  では制作側は最終回には何を盛り込もうとしていたのだろうか? アニメのくまみこならではのもう一つのウリは「絶望するまちの描写」だった。アニメでは毎回どこかでまちの目からハイライトが消え絶望顔を晒している。もちろん原作でも同じようにまちは絶望しているが、アニメでは日岡なつみの素晴らしい演技もあり、各話で印象的に描写されている。女子中学生を動揺させるシーンにスタッフが並々ならぬ力を入れていたのは、視聴者の誰もが感じ取れることだ。 「かわいいまち」「絶望するまち」という2つのウリの中で話題性のある後者を押し出そう、1クールアニメのクライマックスとしていよいよまちを都会に出そう、オリジナルにしても原作に忠実に田舎コンプレックスと被害妄想を軸にしよう、でも最終的には田舎に戻そう、という風に組み立てられたのだろうか。この骨子自体は悪くなさそうだが、絶望まちを押し出すあまりちょっと笑えないレベルまで達してしまったこと、話の展開のために良夫のキャラを読み違えてしまったことが誤算だっただろう。  ならばどうすればよかったのか? 日常もの作品にあえて視聴者にストレスとなる展開を持ち込むことは危険であり、都会に憧れ、世間知らずなりに努力を積み重ねてきたとなると、やはり最後は報われてほしいもの。「ご当地アイドル」というある都会的で非日常的なものをこなすにあたり、神楽という田舎的でまちにとって最も日常的なもので認められ表彰される、という展開自体はとてもよく出来ている。となると最後に無理やり原作の展開に合わせて挫折引きこもりENDに着地するのではなくて、まちの成長を感じさせて、もしくは成長してはいるがまだまだ未熟だというのを描写して、そしてまた以前と変わらないまちとナツと熊手村での日々が続く…というようなものが無難な最終回の流れではないだろうか。  最終回こそ賛否両論ある結末になったが、まちとナツが仲睦まじくいちゃいちゃする様子は、数ある日常ものアニメの中でも至高もの。7月から始まる2016年夏の深夜アニメでもいい作品に出会えることを楽しみにしたい。 <取材・文/芝村メイ> ©2016 吉元ますめ・KADOKAWA刊/「くまみこ」製作委員会
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