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意外と知らない“終活”のトリビア20連発

意外と知らない“終活”のトリビア20連発

通り一辺倒の葬儀ではなく、生前にこだわりを伝えて多種多様な葬儀を行いたいと考える人は多い

 婚活、妊活とブームがきて、今や生きている間に死に支度することを表す「終活」という言葉が30~40代にも広がっている。親や親族の死に際して苦労して、「自分が死んでも迷惑をかけたくない……」と考える人が年々増えている。その背景には煩雑な遺産の処理や葬儀など死んでから出ていくカネの算段などもあり、残された家族を思う気持ちが終活ブームを引き起こしていると言われている。  だが、30代で死ぬことを考えてどうすんじゃい!という意見も至極まっとう。ならば、「とりあえず終活関連のトリビアにでも触れて楽しむくらいでいいんじゃないでしょうか」と提案するのは、終活に詳しい記者の古田雄介氏だ。古田氏によれば「どんな世界でもいきなり本気で取り組むのは大変ですが、ちょっとずつ親しんで抵抗感をなくしていけば、自然と腰が軽くなって、いざというときにすんなり動けるようになりますから」という。  そこで、今回は葬儀や墓などにまつわるトリビアを古田氏に伺った。死んだ後に入るお墓や葬儀の意外な秘密を解説していこう。 ◆その1……「先祖代々の墓」の歴史は大抵100年ちょっと  現在日本にあるお墓は、「○○家の墓」というような一族で一緒に入るタイプが大半だ。しかし、江戸時代までは一部の名家を除いて個人ごとに別々のお墓で眠るのが一般的だったらしい。「明治時代にできた民法で、家督を継いだ者が一族のお墓を引き継ぐというルールにしたため、一般庶民も『先祖代々の墓』を作る必要に迫られ、一気に普及したと言われています」(古田氏、以下同)。  先祖代々といっても、鎌倉時代や平安時代の先祖はどこで眠っているのかわからないのが普通とのこと。ちなみに、現民法ではお墓の引き継ぎに関する規則は設けていない。 ◆その2……そもそも庶民がお墓を建てるようになったのは天草四郎後  庶民の墓自体、建てるのが普通になったのは江戸時代中期以降のことだと言われている。「幕府がキリスト教禁止令を発布すると同時に、民衆の戸籍を寺で管理するような制度を作ったことで、所在が安定し、その土地と寺の作法に基づいた墓を建てるようになりました。だいたい17世紀後半から18世紀にかけて全国に広まったそうです」  天草四郎率いる島原の乱(1637~1638)などを経て、全国の民衆が寺請制度の下で管理されるようになり、集落が安定してから、じわじわと墓を建てる風習が広まっていたというわけだ。 ◆その3……火葬炉は19世紀の欧州で生まれたが、先に普及したのは日本  火葬場は18世紀後半に墓地問題が深刻化したヨーロッパで運営が始まったが、キリスト教の価値観に基づく抵抗感から長らく普及しなかった。そこに明治政府の使節団が訪れ、先進的な火葬炉の技術を日本に持ち帰ったところ、世界に先んじて順調に普及していった。 「日本はこの身で復活するという概念がなかったので、すんなり火葬が選択できたようです。それでも当時の火葬率は1900年頃で3割弱でしたが」  2013年度の政府統計によると、現在の日本の火葬率は99.9%超。もちろん世界一だ。 ◆その4……告別式を発明したのは板垣退助  現在の日本は、1日目に通夜式、2日目に葬儀・告別式を行うのが一般的だ。このうち、“お葬式”の本体は2日目の葬儀で、引導を渡されたり釈迦の正式な弟子になったりといった宗教儀式が行われる。対する告別式は世俗の儀式で、弔問客が故人との別れを惜しんだりする場として開かれる。  その元祖は、1901年に行われた「中江兆民君に別れを告げる儀式」とされる。思想家・政治家の中江兆民は死に際して「葬儀無用」と遺言したが、「それでもお別れの場を用意したかった友人の板垣退助が考案したと言われています」。 ◆その5……遺影が飾られるようになったのは日露戦争がきっかけ  写真自体は幕末に持ち込まれているが、遺影という文化が普及したのは日露戦争(1904~1905)後のことだった。戦没者の生前の写真を立派に飾る行為が、軍主導で行われたという。 「当時は戦争に勝ったものの、経済が疲弊していました。そこで働き手を失った家族が不満を募らせないよう、故人の名誉を高める仕掛けとして用いるようになったようです」  その後、偉人の葬儀や葬儀後の写真集などを通して国民に広がっていき、遺影を飾ることや、遺影に語りかけることが普通になっていったそうだ。 ◆その6……寺みたいな霊柩車の元祖は大隈重信  車体の後部が寺院のようになった「宮型霊柩車」。シンプルなフォルムの「洋型霊柩車」に主流の座を奪われて久しいが、戦後から昭和後期にかけては全国を縦横無尽に走っていた。  その元祖は1922年の大隈重信国民葬だという説が有力。「小型トラックの後部に棺を置いて、その上に御輿を載せて、往来を移動したそうです。自動車が普及する前も輿のついた人力車で棺を運ぶことがあったので、当時もそんなに奇異には映らなかったんじゃないでしょうか」。 ◆その7……花で形作る花祭壇の元祖は吉田茂  お葬式の際、棺を囲んで作られる祭壇には、建物をモチーフにした白木のものや、たくさんの花でなめらかなウェーブを描いた花祭壇などがある。  最近は花祭壇の人気が高まっているが、その元祖は1967年に行われた吉田茂元首相の国葬だと言われている。 「国葬は日本武道館で行われました。菊の花で作った祭壇に国旗や勲章を置いたもので、ウェーブなどはまだ作られていませんでした」 ◆その8 ……日本には散骨専用の無人島がある  近代の日本では散骨は違法とされていたが、1991年に相模灘で散骨が行われた際、法務省が節度を持って行う限りは問題ないとの見解を示したのを契機として、一般に認められるようになった。現在は民間業者によって、定期的に海洋散骨が行われている。  それでも、国土や近海での散骨は地方自治体レベルで禁止していたり、合法でも周辺住民の抵抗感が強かったりするため、実現が難しいのが現状だ。その例外的な島が瀬戸内海にある。島根県隠岐郡海士町に属する無人島「カズラ島」だ。「普段は禁足地で、散骨するときだけ上陸できる取り決めになています。2008年から提供しています」。  次回は終活や死生に関わる全般にトリビアだ。番組が終わって久しくなるが、読者の皆さんはへぇ~を連発しながら読んで頂きたい。 ⇒【後編】「その9~20」に続く https://nikkan-spa.jp/798745 取材・文/長谷川大祐(本誌) 古田雄介
日刊SPA!編集。SPA!本誌では谷繁元信氏が中日ドラゴンズ監督時代に連載した『俺の職場に天才はいらない』、サッカー小野伸二氏の連載『小野伸二40歳「好きなことで生きてきた~信念のつくり方~』、大谷翔平選手初の書籍となった『大谷翔平二刀流 その軌跡と挑戦』など数多くのスポーツ選手の取材や記事を担当。他にもグルメ、公営競技の記事を取材、担当している
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