日本初の異種格闘技戦! 大正10年のプロレス対柔道、アド・サンテル事件の裏には破門覚悟の若者たちがいた
―[フミ斎藤のプロレス講座]―
大正から昭和にかけての日本のプロレス史でもっとも重要な事件は、アド・サンテルの来日と日本人柔道家との闘いである。
サンテルとその弟子ヘンリー・ウィーバーは日本にやって来た最初の純粋なプロレスラーで、このふたりと日本人柔道家との試合は――プロレス興行というよりも――現在の“学説”では日本のMMA(総合格闘技)のルーツという位置づけになっている。
サンテルは1887年(生まれた年については1884年、1888年と諸説がある)、ドイツのドレスデン出身で、本名はアドルフ・アーンスト。
アメリカで伊藤徳五郎五段、坂井大輔四段ら在米の柔道家、柔道からプロレスラーに転向したタロー三宅(三宅多留次)らを下し“柔道世界チャンピオン”を名乗った。1921年(大正10年)2月、弟子のヘンリー・ウィーバーを帯同して来日し、講道館に対し日本人柔道家との対戦を申し入れた。
ただし、この“アメリカ人プロレスラーが講道館柔道に挑戦”というストーリーはじつに荒唐無稽で、少年漫画であればこういう設定でもあまり不自然ではないが、この時代にアメリカの超一流レスラーがなんのあてもなくわざわざ太平洋を渡って――それも飛行機ではなく何週間も船に揺られて――日本までやって来て、興行日程もなにも決まっていないような状況のなかで、ファイトマネーの交渉もなしにいきなり講道館に宣戦布告するとは考えにくい。
アメリカ側にはアメリカ側でこのイベントを企画したプロデューサーがいて、日本サイドは日本サイドでそれなりの人物、あるいはそれなりのグループがそれなりの受け入れ態勢を整えていたととらえたほうがより現実的だろう。
来日したサンテルを横浜で出迎えたのは、講道館の山下義昭八段をはじめとする講道館関係者数名、武侠世界社という出版社(雑誌『武侠世界』を発行)の針重敬喜社長、米国レスリング倶楽部国際競技会支部という団体の河昭一という人物だったとされる。
この“サンテル事件”の一部始終をくわしく描いた著作物としては『講道館柔道対プロレス初対決――大正十年サンテル事件――』(丸島隆雄著、島津書房、2006年)という研究書がある。プロレスファンのための本ではなく、どちらかといえば柔道サイドの視点に立ったドキュメンタリーではあるが、大正から昭和初期にかけての文献がていねいにリサーチされていて資料的価値はひじょうに高い。
嘉納治五郎・講道館館長は「興行スポーツと関係を持つことは好ましくない」としてプロレスラーと柔道家の“他流試合”に反対し、講道館も門下生がサンテルらと対戦することを禁止した。嘉納館長が高等師範学校校長として教育者の立場にあったこと、IOC(国際オリンピック委員会)委員、対協(日本体育協会)会長としてアマチュア・スポーツ界のトップの座にあったことなどがその理由だった。
これもまたいささか少年漫画的な展開ではあるが、講道館からの破門を覚悟でサンテルとの他流試合に名乗りをあげたのは、早稲田大学の庄司彦男三段(文献によっては彦雄と表記、資料によっては四段と表記されている)、“義足の名人”児玉光太郎門下の清水肇三段(文献によっては“はじめ”を“一”と表記、資料によっては二段とも四段とも表記)、永田礼次郎三段、増田宗太郎二段(文献によっては“壮太郎”と表記)の4人の若き熱血漢たちだった。
当時の新聞はサンテルを六尺(約180センチ)と報じたが、じっさいは身長173センチ、体重80キロのミドル級の体格。のちに日本におけるレスリングの普及のキーパーソンのひとりとなる庄司も身長167センチ、体重75キロと小兵だった。
特別ルールにより柔道側は当て身、レスラー側は首(ヘッドロック、フェースロックを含む)、指関節(フィンガーロック、トーホールドを含む)への攻撃をそれぞれ禁止とし、レスラー側が柔道衣を着用することが義務づけられた。判定の正確さを期すため、各試合とも主審、副審の2名のレフェリーがついた。
講道館が禁じた“日本柔道対西洋相撲”“日米国際大試合”のプロ興行は3月5日、6日の2日間、東京・九段の靖国神社相撲場で開催され、いまでいうところのリングサイド席には元横綱・太刀山が陣どった。
観客数については、両日とも2万5000人動員とする説、1万人余とする説のふたつの説がある。“特設リング”は4本柱の土俵の上に床を張り、その上に約5メートル四方のキャンバスを敷いて、周囲を2本のロープで囲む形で組み立てられた。試合はいずれも20分1ラウンドの3本勝負でおこなわれた。
初日の第1試合にラインナップされたウィーバー対増田二段の一戦は、1本めを増田が絞め技で先制し、2本めはウェーバーが絞め技を決めてイーブンとし、3本めは20分タイムアップ。1-1のスコアでドローという結果だった。
第2試合のサンテル対永田三段は、1本めが20分タイムアップで、2本めはサンテルのチョークホールドが反則かどうかで試合が中断され、協議の末、サンテルの反則負けが宣告されたが、負傷により永田が3本めを棄権したため、結果的に1-1の引き分けに終わった。
2日めの第1試合、ウィーバー対清水三段は1本め、2本めとも清水三段が右腕の逆関節――プロレス技でいうところのダブル・リスト・アームロック、またはチキンウィング・アームロック――をキメての2-0のストレート勝ち。
サンテル対庄司彦男のメインイベントは、各ラウンドとも20分タイムアップに終わり、試合は3ラウンド合計60分を闘いぬいての時間切れドローに終わった。
1887年生まれ、1907年にデビューというプロフィルが正確ならば、サンテルはこのときキャリア14年の34歳。アメリカ国内では世界ミドル級王者、世界ライトヘビー級王者の肩書を持ち――それを確認できる日時や場所などのデータはないが――生涯にわたりシングルマッチでは“絞め殺し”エド・ストラングラー・ルイス、“胴絞めの鬼”ジョー・ステッカー、“大黒柱”スタニウラウス・ズビスコの3人の世界チャンピオンにしか敗れていないという超一流の実力者だった。
現役選手としてのエピソード以外では、20世紀のアメリカのプロレス史の幕開けとされる“家元”フランク・ゴッチ対“ロシアのライオン”ジョージ・ハッケンシュミットの1911年の(2度めの)統一世界ヘビー級選手権のプロデュースに深くかかわり、1930年代に若き日の“鉄人”ルー・テーズをコーチした人物としても知られる。
プロレスラーが柔道着を着用して他流試合をおこなうという特殊なシチュエーションではあったが、庄司はどうやらとんでもない大物と引き分けたことになる。サンテルが望んでいたのは“決闘”ではなく、日本におけるレスリング(あるいはプロレス)の普及だった。
1896年(明治29年)、鳥取県境港生まれの庄司は、このとき25歳。この試合がおこなわれた翌年の1922年(大正11年)に早稲田大学を卒業し、その後、アメリカに留学してロサンゼルスの南カリフォルニア大学に6年間、籍を置いた。
南カリフォルニア大講師となった庄司が同大野球部を引率し、母校・早稲田大学の招きで帰国したのはサンテル戦から8年後の1929年(昭和4年)。このとき、庄司は日本人柔道家のプロレス転向を熱心に説いたとされる。
庄司自身はアメリカではプロレスのリングには上がらなかったが、在米中にプロレスそのものへの造詣を深め、帰国後は「ミイラ取りがミイラになった」とコメントし、“絞め殺し”ルイスや“胴絞めの鬼”ステッカーについて熱く語っていたとされる。
日本のプロレス・ライターのパイオニアとして知られる田鶴浜弘(たづはま・ひろし)さんは、この時代に早稲田大学の先輩にあたる庄司からアメリカのプロレスのはなしを聞かされ、プロレスというジャンルに興味を持ったのだという。
庄司の帰国からさらに2年後の1931年(昭和6年)4月、庄司、八田一朗、山本千春、小玉正巳らが中心メンバーとなり早稲田大学に日本最初のレスリング部が創部された。八田は“日本レスリング界の父”として有名な人物であることはいうまでもないが、庄司の母校である早稲田大学にレスリング部が創部された時点では、10歳年上の先輩にあたる庄司のほうが八田よりも“格上”だったとみるべきだろう。
ロサンゼルス・オリンピックに代表選手を派遣するため、翌1932年(昭和7年)には八田を中心に大日本アマチュアレスリング協会が発足したが、プロ志向の庄司はこれとは別団体の大日本レスリング協会を設立。講道館もレスリング部を新設した。産声をあげたばかりの日本のアマチュア・レスリング界があっというまに3派に分裂してしまった現実は、どこかプロレス的なアイロニーを感じさせる。
それよりも先に1931年(昭和6年)6月、早稲田大学大隈講堂で開かれた日本初のレスリング大会は、アメリカ帰りの庄司のプロデュースによるイベントとされ、試合に使われたのはアマチュア用のマットではなく、3本のロープが張られた四角いプロレス仕様のリングだった。庄司はこの時点ですでにプロレス興行のイメージを頭に描いていたのだろう。
庄司は戦後の1947年(昭和22年)、衆議院議員となり、社会党と自民党を渡り歩き、実業家としても成功した。1960年(昭和35年)、64歳で死去。力道山からはじまる日本のプロレス史の年表には登場しないが、その功績がもっともっと評価されていい、もうひとりの“プロレスの父”といえるかもしれない。
文/斎藤文彦 イラスト/おはつ
※「フミ斎藤のプロレス講座」第55回
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