更新日:2016年05月06日 18:08
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国内初ジェット旅客機MRJに「三菱」が託したある思い

 11月11日に「初飛行」に成功した国産初のジェット旅客機・MRJ(Mitsubishi Regional Jet)は、三菱重工業が2008年に設立した三菱航空機が開発、製造を牽引してきた。これまで、日本でもっとも有名な国産飛行機といえば、真っ先に「零戦」(零式艦上戦闘機)の名を挙げる人が多かったと思われるが、零戦もまた、三菱重工業の前進である三菱内燃機製造が開発したものだ。
国内初ジェット旅客機MRJに「三菱」が託したある思い

写真/三菱航空機のホームページより

 2年前に公開された宮崎駿監督のアニメーション映画『風立ちぬ』が、零戦の設計者、堀越二郎をモデルにしたことで、再び零戦が脚光を浴びることとなったが、MRJの開発がスタートしたとき、最初にエンジニアたちが集められた部屋は、70年以上前、堀越ら若きエンジニアたちが零戦の設計に奮闘していた「機体設計室」と同じフロアだったという。  この「機体設計室」の入った建物は、三菱の名古屋航空機製作所のシンボルとも言える存在で、屋上に大きな時計があることから「時計台」と呼ばれており、堀越が終戦後に出版した著書『零戦--日本海軍航空小史』(奥宮正武共著・日本出版協同刊/1953年)にも登場している。  それだけにMRJの初飛行は、70年余りの長い年月を経て結実したエンジニアたちの「夢」とも言えるが、『技術者たちの敗戦』(相思社)など航空業界をテーマにしたノンフィクションを数多く執筆し、零戦開発時、堀越の下で汗を流し、零戦の幻の後継機と言われる「烈風」の設計主務者であった曾根嘉年らにも取材を行った経験がある作家の前間孝則氏が、「三菱」がMRJに託した思いについてこう話す。 「名古屋航空機製作所のシンボルであった『時計台』は、新工場を建設するため2004年に取り壊しが計画されたのですが、当時三菱重工会長だった西岡喬(たかし)氏が待ったをかけて保存されることになったのです。三菱にとって象徴的な存在だった時計台を残すことで、『戦前からの三菱の伝統を引き継ぐ』という思いを社員全員に伝えたかったのでしょう」  その西岡氏も、堀越の教え子の一人だった。西岡が東京大学航空学科の学生だった頃、堀越は新三菱重工業(三菱内燃機製造が社名変更、現・三菱重工業)の顧問を務めながら、東大航空学科の非常勤講師として教鞭を執っていた。 「西岡氏は就職先に日本航空を考えていました。当時の国内の航空機メーカーはまともな自主開発に乗り出していなかったからです。そこで、日本航空を会社訪問しようと東京駅で降りたところで三菱本社が近くにあることを思い出し、堀越に挨拶するために寄った。すると堀越に一喝され、その場で三菱への入社が決まったそうです」  自分の教え子たちに「再び国産機を自主開発して欲しい」という堀越の強い想いがあったのだろう。終戦後の7年間、日本は航空機の生産を禁止されたが、「ヒコーキ屋」たちは、近い将来、日本の航空機産業を必ず復活させると確信していたようだ。 「航空機産業で三菱と双璧だった中島飛行機(現・富士重工業)のトップ・中島知久平(鉄道、軍需、商工大臣を歴任)は、日本の航空機産業は必ず復活すると語っていた。第一大戦で一敗地に塗れ、数年間、航空機を含め多くの産業が禁止されたドイツの航空機産業が復活した事例を見ていたからです。その読みは三菱も同じだった」  だが、「空白の7年間」と呼ばれるこの期間に、中島飛行機と三菱は明暗が分かれていく。 「中島飛行機は戦後、三菱、川崎重工より徹底的に解体された。戦後は自動車やスクーター、電車、産業機械などさまざまな分野に手を出したが、軍用航空機のほぼ専門メーカーだったので、手を出した分野に事業としての基盤もなく、航空技術者の多くが退職に追い込まれて散逸してしまったのです。三菱内燃機名古屋航空機製作所長だった岡野保次郎氏も、技術者を分散して温存することを命じました。三菱は造船、橋梁、自動車、産業機械とさまざまなものをつくっていたので、復活まで温存することができたのです。三菱は国を背負って航空機や艦船を建造してきた。それは幕末以来の伝統だった。『その気概を持って、近い将来の復活まで待て』という気持ちで命じたのでしょう。技術者もそういった自負や心構えを持っていたと思います」  次回の後編では、戦後初の国産民間機「YS-11」の挫折ほか、『「7年間の生産禁止」で停滞した航空機産業の復活にかけた人々』に迫る。 <取材・文/日刊SPA!取材班>
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