ばくち打ち
番外編その4:『IR推進法案』成立で考えること(21)
そういったバッタまき(=アトサキ。赤黒二巻の花札を、サキとアトに3枚ずつ配り、9に近い持ち点の方が勝つ日本の伝統賭博)の客たちを、韓国で新規オープンとなった、小規模とはいえラスヴェガス流のカジノに連れて行った。
1968年3月28日のウォーカーヒル・カジノお披露目パーティに招待された800人か1600人の客のうち、まだ現役で博奕(ばくち)を打っている人が、4人現存している、と言われる。
おそらく当時は20代後半か30代前半だったのだろうが、いくら資産をもっていたとしても、この世界で半世紀を生き残ってきたのは、並大抵の才能ではなかったはずだ。
じつは、その生き残り4人の内の一人を、わたしは存じ上げている。
現役も現役、たまにマカオの大手ハウスでお見掛けするし、OZ(=オーストラリア)のカジノでもお会いしたことがあった。
ご老齢ながら、背筋をしゃきっと伸ばし、バカラ卓に対して45度の角度に上体を傾けて、カードを絞る。
斜めシボリの人なのだが、それがぴたりと決まっている。
顔に深く刻まれた皺(しわ)には、ご老体の勝負の歴史が埋め込まれていた。
勝っても負けても、表情ひとつ変えない。眉の毛一本動かさない。
渋い。
歴戦の勇士。まさに古武士の風格である。
「町井さんのところから声が掛かって、ソウルのパーティには参加した。他の人たちもほとんどがそうじゃなかったのかね。自分たちはバッタまきしかやったことなかっただろう。関西からの人たちだって、手本引きの場の客だ。ルーレットは見てりゃすぐにわかるんだが、ブラックジャックとかバカラとか、カジノで採用されてるゲームなんて、やったことがない。それで、東声会の若い衆が、テーブルごとに一人ずつついて、ゲームのルールやプレイの仕方を説明してくれたんだ」
と、たまたまマカオでお会いした時、ご一緒した食事の席で、ご老体がウォーカーヒルのお披露目パーティの様子を語ってくれたことがあった。
その食事の席には、この業界が永い某ハウスのVIP部ディレクターもアテンドしている。
それで、韓国カジノとはかかわりがない業界裏話も、いろいろと交わされた。
「以前Mでお世話になったXXさんは、どうしています?」
とVIP部ディレクター。
「ずいぶん前に死んでるよ。首をくくったと聞いている」
とご老体。
「しばらく、Yさんの話も聞きませんね」
「あれは、華々しく破産」
「ZZZさんは?」
「10年も前にチョーサンした」
「チョーさん、って?」
「会社が不渡りを出して、夜逃げだ。逃散だ。マレーシアで、若い奥さんとひっそり暮らしているらしいぞ」
死屍累々(ししるいるい)、嫌になるほど死屍累々。
まったく博奕(ばくち)の世界は、裏哀しい。阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄である。
笑うところじゃないのだが、それでもわたしは、はっはっは。
思わず、吹き出してしまった。失礼。
しかしこの時の会話があったので、わたしが永い間抱いてきた疑問の一部が、氷解するヒントを得た、と心得る。
ここで話がまた飛ぶ。どんどんと飛ぶ。
これはわたしの思考様式がそうなっているのだから、仕方ない。
我慢してお付き合い願いたい。それがイヤなら、読むなよ(笑)。
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番外編その4:『IR推進法案』成立で考えること(20)
1968年3月28日、約800人のゲストが招待され、豪華・盛大なお披露目パーティが、ソウル広津区のウォーカーヒル・ホテルで開催された(このお披露目パーティは2回開催され、計1600人のゲストが集まった、とする説もある)。
韓国政府関係者を除けば、そのお披露目パーティの招待客のほとんどが、日本からの者たちだった。
さて、ハウス側は、その日本からの招待客リストをどうやって作成したのか?
日本の非合法賭場(どば)の上客リストを、そっくりそのまま流用したのだった(笑)。
そもそもゲーム賭博が禁止されている日本での博奕(ばくち)好きたちのカネを吸い上げるために、軍事独裁政権によって構想されたのが、韓国のカジノであるそうだ(それゆえ「内国人入場禁止」)。
おそらくその800人か1600人の招待客リスト提供への功績もあってのことだろうが、同年に「猛牛」こと広域指定暴力団(当時)東声会の町井久之会長は、朴正煕(パクチョンヒ=朴槿恵・前大統領の父親)韓国大統領より国民勲章・冬栢章を与えられている。
話が飛んだついでに、もっと飛んでしまう(笑)。
わたしは中学から高校にかけての数年間を、六本木交差点から麻布十番に抜ける芋洗坂(いもあらいざか)にあった、敷地だけはやたらと広大だったがいまにも倒壊しそうなぼろぼろのあばら家で過ごしている。1960年代の前半だった。
あの頃の六本木は、まだ地下鉄も通っていなかった。新橋と渋谷を結ぶ路面電車(通称・ちんちん電車)があったくらいである。
昼間は「陸の孤島」として知られたのどかな六本木なのだが、夜になるとその風貌が一変した。
敗戦によって接収された米軍の諸施設があり、おまけにその数年前にはNET(現・テレビ朝日)の開局もあって、夜な夜な金持ちたちのアホぼん・ベッチョむすめたちが群れ始めた頃だった。
神戸牛の瀬里奈、中華料理の香妃園や魯山といった、来日の際にはハリウッド俳優たちが必ず立ち寄る有名どころも多かった。しかし、「東京のマフィア・ボス」ニック・ザペッティが経営する二コラスを筆頭として、怪しげなレストラン・クラブなども、それ以上に存在した。
のちに稲川会本部もできたのだが、当時の六本木のウラ社会を牛耳っていたのは、圧倒的に港会(住吉会の前身)だったと思う。
学校にはほとんど通わず、夜になると元気になる地元の不良少年であったから、忘れ難い状景も数多く目にした。
怪しげなクラブあるいは路上でトラブルが起こると、いつもどこからともなく真っ先に駆けつけたのは、なぜか、港会ではなくて東声会の若い衆たちだった。
190センチ110キロはある米軍の大男に、頭を割られながら、叩き付けられても叩きつけられても向かって行った東声会の若い衆のことなど、その破れたシャツの色まで含み、まだわたしの記憶に鮮明に焼き付けられている。
ある時など、不良外人(といっても米軍関係者だが)5人を相手にして、氷屋の氷を切る大型ノコギリで、おっさんが単身で切りつけていった。
当時は都心でも、氷屋は巨大な氷塊をリヤカーに積んで、飲食店に届けた。おそらく飲食店に「守(も)り代(=みかじめ)」代わりの氷を供給するのが、あのおっさんの昼間の仕事だったのだろう。しかしその背中全面には、「一匹虎」の入れ墨。背中にまで飛んだ返り血で、虎が赤い涙を滴らせていた。
あれは、わたしがこの歳になっても、決して忘れることができない情景である。
そういう「根性もん」の荒くれ男たちをまとめていたのが、「猛牛」町井久之だった。
最盛期に東声会の構成員は、1600人を超したそうである。
東声会が仕切る非合法賭場が、六本木・赤坂・銀座をはじめとして川崎・横浜・千葉を含む関東地区の諸都市に六十盆前後あった、と言われる。
もちろん、当時の関東の賭場(どば)のことだから、どこでもバッタまき(別名・アトサキ)の盆だった。
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番外編その4:『IR推進法案』成立で考えること(19)
もちろん、大手ハウスのジャンケット・ルームやプレミアム・フロアで、まっとうな稼ぎから得られたまっとうなカネで、太い博奕(ばくち)を打つ人たちがいないわけじゃない。しかしそれは、前述したように少数派だ。
そういう清廉潔白な人たちですら、国税からの「お尋ね」「お問い合わせ」の手紙は、もらって嬉しいものでなかろう。おまけに、「税務調査」や「査察」がかけられてしまえば、ほぼ間違いなく税務署側の言い値通りのカネをむしり取られる。
それゆえ太い博奕を打つ際は、香港やシンガポールといった相対的に所得税の最高税率が低い国(香港は15%、シンガポールは2016年に上がって22%)の「ハイローラー」たちですら、自分が居住する国以外に存在するカジノで、バカラの札を引くものだ。
なぜなら前述したように、カジノにおける自国民のバイイン(=チップを購入すること)は、一定額を越えれば、ハウス側から国税への報告義務が生じるからである。
先に、外国在住の「ハイローラー」たちの集客は、業者に委託するのが一番安全かつ確実、と書いた((17)を参照のこと)。
なぜ、美味しい餌をしこたま撒けるカジノ・ハウス側より、業者側の方が外国在住「ハイローラー」たちを集めやすいのか?
もちろん、業者側でも負けじと、いろいろと美味しい(時として怪しげな)餌をしこたま撒くのだが、それよりもなによりも業者側が「ハイローラー」たちを集めやすいという最大の理由は、次の部分にある。
彼ら彼女らの個人情報を握っている(笑)。
どうしてそんな不思議な「個人情報リスト」を握れるのか、いやそもそも、そんな「リスト」が存在するのか?
存在する。そしてタネがわかれば、簡単な仕組みである。
あれ、主に、非合法賭場(どば)における上客のリストなのだ。それゆえ、「蛇(じゃ)の道は蛇(へび)」となり、「ハイローラー」たちの個人情報がジャンケット事業者に流れる。
法律でどれだけ厳しく禁止しようが、世界各地あまねく非合法の賭場は存在する。
イスラムの戒律が厳格な国でも、社会主義体制の国にもある。
ずいぶん以前に引用したが、チャールズ・ラムの言葉では、
――ヒトは、賭けをする動物。
なのだから、いかに法律で厳禁されようとも、ヒトは博奕(ばくち)を打つ。
有史以来そうだった。いや有史以前からヒトは博奕を打っていた。それを証明する証拠品が数多く掘り起こされている。
* * *
ちょっと、話が飛ぶ。
周知のように、現在のところ(パチンコ・パチスロを除く)ゲーム賭博が法的に認められていない日本に、もっとも近い政府公認のゲーム賭博場が存在するのは韓国である。
韓国カジノの起源を、すこしだけなぞってみよう。
1967年、まず試験的に仁川にオリンポス・ホテルに小舎(こしゃ)カジノが立ち上げられた。翌68年に、より本格的なソウル・ウォーカーヒル・ホテル(現シェラトン・グランデ・ウォーカーヒル・ソウル)のカジノが開業した。
カジノ解禁にかかわる名目上の理由は、外貨獲得のためだった。
「外貨獲得」が目的なのだから、「内国人」入場禁止である。
2000年、東北の山岳地帯にオープンした江原(カンウォン)ランドという唯一の例外を除けば、2017年の現在にいたるまで、韓国のカジノは「内国人入場禁止」となっている。
このケースにおける「内国人」の法的定義は、韓国在住の韓国籍所有者である。
在外韓国籍所有者は、含まれない。
それゆえ、いろいろと腹を抱えて笑ってしまいそうなエピソードが生まれてきたのだが、当稿の論旨から外れるので、それはそれでまたそのうちに書くとしよう。
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番外編その4:『IR推進法案』成立で考えること(18)
新規オープン後5年間ほどは、ジャンケット事業者を排除した形でも、澳門金沙(マカオ・サンズ)の開業時のように総投資を8か月間で全額回収する、などといったことは起こらないにしても、日本のカジノは充分以上の収益が見込める、と […]
番外編その4:『IR推進法案』成立で考えること(17)
ここまで長々と、ジャンケットおよびその関連について、まとまりもなく書き連ねてきた。 一般客ではなくて、いわゆる「ハイローラー」たちの取り込みが、いかにカジノの収益を左右する死活問題たりうるか、すこしでもおわかりいただ […]
番外編その4:『IR推進法案』成立で考えること(16)
繰り返すが、カジノの「売り上げ」とは、バイイン(打ち手によるチップの購入)・マイナス・ペイアウト(ハウスによる払い戻し)の金額を意味する。つまり、一般会計上では、「粗利」に当たる。 日本ではここをよく理解していない人 […]
番外編その4:『IR推進法案』成立で考えること(15)
2004年5月にオープンした澳門金沙(マカオ・サンズ)は、マカオ経済にまるで冗談みたいなインパクトを与えた。 2004年第2四半期のマカオのGDP(国内総生産)が、前年比54.1%も増加したのである。 以降、続々と […]
番外編その4:『IR推進法案』成立で考えること(14)
全投資を8か月で回収してしまった件もそうなのだが、当時の澳門金沙(マカオ・サンズ)には、当たり前ならとても信じられないような話が、ごろごろと転がっていた。 オープンは2004年5月18日で、その月の入場者数は50万人 […]
番外編その4:『IR推進法案』成立で考えること(13)
2002年の公開入札新制度のもと、マカオ政府の審査を通ったのが、以下の6社だった(サブ・ライセンスおよび2005年の追加ライセンスを含む)。 澳門博彩股份有限公司(SJM社)、代表スタンレー・ホー。地元系の資本。持ち […]
番外編その4:『IR推進法案』成立で考えること(12)
このマカオ戦争でもっとも突出した利権の草刈り場となったのが、カジノに存在したジャンケット・ルームだった、といわれる。 当時はカネをつかえばなんとかなったジャンケットのライセンス、およびそこから派生する金融屋や債権回収 […]