“女帝”ブル中野にとって地球はちいさすぎた――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第192回(1995年)
1980年代前半に大ブームを巻き起こしたクラッシュ・ギャルズ(長与千種&ライオネス飛鳥)の人気を支えていたファン層はもっぱらローティーンの女の子たちだったが、ブルはそれまで女子プロレスというジャンルに苦手意識を持っていた男性ファンを試合会場にひっぱり込んだ。
理由はかんたんだった。ブルとその仲間たちがくり広げる全女スタイルのプロレスには、女子プロレスそのものに偏見を持っていた多くの男性ファンや目の肥えたマニア層をあっと驚かせ、うならせ、感動させるだけのホンモノの魅力と芸術性があった。そういう意味で“ブル中野”は従来の女子プロレスを超越した存在だった。
“赤いベルト”WWWA世界王座は“怪物”に変身したアジャに明け渡したが(1992年=平成4年11月26日、川崎)、海外での活動を希望していたブルは同年6月、メキシコでローラ・ゴンザレスを下しCMLL世界女子王座を獲得。“赤いベルト”を失ったあとはチャンピオンベルトを必要としない天上人的なポジションに立った。
全女を“卒業”したブルはその後、フリーの立場でWWEと契約し、アメリカを長期サーキット。WWEの全米ツアーの定番カードとなったWWE世界女子王者アランドラ・ブレイズ(メドゥーサ)とのタイトルマッチ・シリーズは東京ドームのリングでそのクライマックスを迎え、ブルがブレイズを破り同王座を手にした(1994年11月20日)。
アメリカと日本を往復するようになったブルは1995年(平成7年)4月、北斗晶、豊田真奈美、吉田万里子の3選手とともに新日本プロレスの北朝鮮ツアーに同行。同年11月にはWWEのライバル団体WCWと契約し、翌1996年(平成8年)8月まで同団体のリングに上がった。
しかし“女帝”の座に君臨していたはずのブルは翌1997年(平成9年)、なんの説明もないままプロレス界からフェードアウトした。1998年(平成10年)6月、中野恵子の名で『ブル中野のダイエット日記―19号サイズの私が9号サイズに』という単行本を出版。115キロから65キロへの50キロの減量に成功し、マスコミのまえに現れたブルはもう“ブル中野”ではなくなっていた。
“中野恵子”はそれから5年後の2003年(平成15年)にも『ブル中野の「ちがう自分」になる本―今日からあなたも変われる』というタイトルの女性向け自己啓発系のエッセー集を出版し、それからほんとうにプッツリと消息を絶ってしまった。
“ブル中野”と“中野恵子”はどうやら両立しないふたつの人格だったのだろう。ブルは“中野恵子”としての人生を選択し、プロレスラー“ブル中野”を封印したのだった。
この連載の前回記事
この記者は、他にもこんな記事を書いています
ハッシュタグ