更新日:2022年08月21日 12:22
スポーツ

ブレットが目撃したホーガンとフレアーが“共存”するリング――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第278回(1998年編)

 ブレットは、“ヒットマン”ブレット・ハートのままWWEからWCWにやって来た。主役クラスの登場人物がひとり増えたことで“ナイトロ”のレイアウトにも微妙なひずみが生じた。ハルク・ホーガンがいて、ランディ・サベージがいて、ケビン・ナッシュ&スコット・ホールがいる。フレアーがいて、スティングがいて、レックス・ルーガーがいる。スーパースターのなかのスーパースターたちがきゅうくつそうに月曜(と新番組“サンダー”が1998年1月から毎週木曜夜に放映開始)の2時間ワクの出番を待っていた。  ブレットは、テレビのプロレス番組とは父親と息子が共有する“男の子の時間”であると考えていた。ハート家では父スチューから息子たちへ、父ブレットから息子たちへそのトラディションが受け継がれてきた。でも、いまのR指定コンテンツの“ロウ”はもう子どもたちにはみせられない。だから、ニューヨークでプロレスをつづけていくのがイヤになった。  ヒットマン・シェード(サングラス)の向こう側の景色がちょっと変わったかなと思っていたら、そこは南部アトランタのリングだった。“13タイムス・ワールド・チャンピオン”のフレアー様が“5タイムス・ワールド・チャンピオン”のブレットに救いを求めてきた。1949年2月生まれのフレアーはもうすぐ49歳(当時)。じつは、ブレットも自分ではそうとは気づかないうちに40代ゾーンに足を踏み入れていた。  ハートビートが聴こえてきそうなサムバディーとは、こっちまでハートビートがビンビンきちゃうようなサムバディー、という意味だった。(つづく)
斎藤文彦

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