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みんながみんなそれぞれに“プロレスの定義”を探している――フミ斎藤のプロレス読本#002【プロローグ編2】

みんながみんなそれぞれに“プロレスの定義”を探している――フミ斎藤のプロレス読本#002

新連載コラム『フミ斎藤のプロレス読本』プロローグ02は、藤波辰爾こそ「プロレスの型」であるというおはなし(写真はWCWのオフィシャルDVD“スーパーブロール91”のジャケットより)

 199X年  藤波辰爾がこんなことをポツリともらしたのを聞いたことがある。 「プロレスって、いったいなんなのかなあって考えちゃうことがありますよ」  藤波さんのような大ベテランがそうなのだから、プロレスとはこうこうこういうものであるという“定義”を理路整然と説明できる人なんて、この世にいないのではないだろうか。  かつて、旧ソ連から初のプロレスラーが誕生することになったとき、アントニオ猪木はモスクワのアマチュア・レスリング関係者にプロレスというジャンルについてこう説明したとされる。  プロのレスリングは4つの要素から構成されている。まずはじめに「攻撃」。ふたつめが「受け身」。それから「感性と表現力」。そして最後に「信頼」。  まだプロレスというものをいちども観たことがなかった旧ソ連サイドがこの4つの概念をどんなふうに受け止め、どういったレベルでそれを理解したのかはいまとなってはわからない。  これはプロレスを“やる側”の先輩が、これからそれを“やる側”になるアスリートたちに伝えた心がまえのようなものだったのだろう。  プロレスにかかわっている人たちは、みんながみんなそれぞれにプロレスの定義を探していて、みんながみんなそれぞれのプロレス観(らしきもの)を身につけている。  じっさいにプロレス(の試合)を体感できない“観る側”は、実生活のなかでのもろもろの体験――原因と結果、成功と失敗、いい判断と悪い判断、思い切りのいい場合と思い切りの悪い場合、スッキリした気持ちとスッキリしない気持ち、学習と直感、エトセトラ、エトセトラ――をヒントにリングのなかで起こっていることを理解し、なんらかの解釈を手に入れる。プロレスを“やる側”はプロレス(の試合)をやりつづけることが実生活になっていく。 「いまの世代の選手たちの動きは読みにくい。“型”がないから」  G1クライマックスのトーナメント戦2回戦を闘い終えた直後の藤波さんはこうコメントし、対戦相手となった木戸修については「選手それぞれクセがあるが、(木戸は)育ちがいっしょだから読めた」と評した。“育ち”とは自分たちが若手時代に学んだレスリングを指している。
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“いまの世代”と“型”
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⇒連載第1話はコチラ

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